「緊張感をもって注視していく」「あらゆる可能性を検討していく」「迅速に対応していく」「丁寧に説明していく」……。
特定機密保護法、安保法制、森友、さくら、そして
コロナと、この7年間、様々なことがあった。しかし、その全てにおいて、政権サイドは、この「
していく4点セット」で乗り切っている。いやむしろ、この「していく4点セット」以外、何か実のあるものがあった試しはない。そして、注視、検討、対応、説明「していく」とは言うものの、その「していく」先がどこにあるのか、「していく」結果、何があるのかの説明などない。おそらく当人たちにはその意志さえないのだろう。「していくしていく」と連呼し続け、ひとまずその場をしのぎ、次の「していくしていく」を仕込む……。この7年半とは、これの連続であった。
まるでそば屋の出前だ。注文した蕎麦がなかなか届かない。仕方なしに客は、店に電話をする。店側の返答はいつも「今、仕込んでます」「今、出ました」ばかり。しかし蕎麦は一向に届かない。腹を立てた客はまた店に電話するほかない。すると今度は、「あなたのような客をクレーマーと言うのです」「隣町のあの悪夢のようなそば屋より、ウチの方がマシです」と店側が反論するのだ。電話口では、運良く店内に入ることができた常連客の「そうだそうだ。そば屋の大将の言う通り! お前みたいなのがクレーマーだ。隣町の悪夢のそば屋よりマシじゃねーか。何を文句つけてんだ。我慢しろ」とやじる声が聞こえてくる。それで客が「もう結構です!」と焦れたら儲けもの。今日の出前客を逃したとて、また次の日がやってくるではないか。そしてまた次の日も同じ手口でごまかしごまかししのげばいい。売上の減少など構うことはない。出前に気を使わなくとも、店内にいる常連客を大事にしていれば何とか店は経営していける。さしずめ、我々有権者は、そんなそば屋の幼稚な詐欺に騙され続けてきた愚かな客なのであろう。
しかし、そんなそば屋でも、渋々蕎麦を届けざるを得ない時がやってくる。かくてようやく届けられたのが、
アベノマスクであり
、Go toトラベルキャンペーンであり、そして
特定給付金であった。届いた蕎麦は、不味く、汚れており、伸びきっている。何よりも、届く前に誰かが箸をつけた様子さえあるではないか。ここにいたって客は初めて、このそば屋のそば屋ならざることを知った。そしてそば屋の方でも、これ以上、詐術が続かぬことを悟ったのであろう。
空虚な言葉を振りまくだけの「していく4点セット」による詐術は、かくて終焉を迎えた。言葉ではなく言葉ならざるもので実を見せねばならぬに至って、詐術の機構はその動きを止めざるを得なかったのだ。しかし、空虚な言葉によってのみ形成されるこの機構の動きを止めるのもまた、空虚な言葉でならねばならなかったのだろう。そのために周到に用意された最後の空虚な言葉が、誰もその真相を伺い知ることのできない「持病」だったわけだ。
しかし私はそれを笑うことができない。「
空虚な言葉が7年間、日本を支配し、空虚な言葉でその支配が終焉を迎えたにすぎない」と、ニヒルに笑うことがどうしてもできない。このことは、とりもなおさず、この7年半、「実のある言葉」が「空虚な言葉」に負け続けてきたということでもあるのだから。
我々は負けたのである。経綸さえない空虚な政治家が矢継ぎ早に繰り出す空虚な言葉に、我々がぶつける実のある言葉は一切通用しなかったのだ。それが現実だ。それこそが、逃れられない「実のある」結果だ。
万年筆でこの原稿を書くと決め、その通り書き進めた結果、私は今、実体のある肉体的苦痛に打ちひしがれている。しかしたどり着いたのは「空虚さの由来」ではなかった。むしろ、私に今、実感をもって迫ってくるのは「負けたのだ。完全に負けたのだ」という、徹底した敗北感だ。
だが、この敗北感こそ、一度、体に叩き込んでおく必要があった「実のある」ものなのだろう。
空虚な言葉との戦いは、これからも続くはずだ。いやむしろ、これからこそが本番かも知れぬ。何せ次の総理は、そば屋の大将ではなく、この7年半のあいだ電話口に立っていたそば屋の丁稚だ。言葉はこれからますます空虚になっていくに違いない。
これからますます苛烈を極めるであろう空虚な言葉との戦いにまた再び臨むためには、こうして、万年筆で原稿を書き、肉体的実感をともなって、相手の空虚さと自分の非力さを見つめることがどうしても必要だった。それが「筆一本で生活する」ものの、覚悟であり決意であるはずだ。
そして覚悟は決まった。
菅義偉、待っていろ。今度こそ、この筆で、そのそっ首を叩き斬ってやる。
<文/菅野完>
<提供元/
月刊日本2020年10月号>