このような激しい騒乱はいわゆる昭和の時代に起きたもので、最近では見られないと思っている読者の方もおられると思います。しかし、1991年に鹿児島県の伊仙町で、前述した事例を超えるような激しい騒乱が記録されています。
この伊仙町は奄美群島の徳之島に属する自治体です。奄美群島は衆議院選挙が中選挙区制で行われていた時代は定数が1で、保岡興治と徳田虎雄という2人の政治家が激しい争いを繰り広げていました。特に徳之島の自治体の選挙は両者の代理戦争となることがしばしばでした。
その激しさはとてつもなく、合法なものだけではなく非合法な行為や支持者同士の衝突ということが起きるため、一時期は一自治体の選挙なのにもかかわらず、機動隊が派遣されるという事態がよく起きていました。
1991年4月に行われた伊仙町長選は特に激しい事態に発展した選挙でした。保岡派に属する樺山候補と徳田派に属する盛岡候補の他、どちらの派にも属さない森候補の3人が立候補していました。この選挙も両派の争いが激しく、選挙戦初日から不在者投票をめぐって両派の運動員の衝突や不在者投票所への乱入騒ぎがあるなど、選挙の状況が不穏になっていたため、鹿児島県警本部の機動隊11人を筆頭に30人以上の警官が投入される事態になりました。
このような不穏な中で投開票日を迎えましたが、ここで大きなトラブルが起きました。ある人物が投票に行ったところ、すでに不在者投票で投票済みとなっていたと主張して、数十人が役場に集まる騒ぎになったのです。そして、この不在者投票をめぐり、選管事務局に怒号が飛び交い、集まった人々が機動隊員とにらみ合いになるという事件が起きますが、事件はここで終わりませんでした。続々と人が役場に集まり、その人数は人口が約9,000人の町にもかかわらず、1,000人にはなろうかという規模になったのです。
この騒ぎは驚くべき事態を引き起こしました。不在者投票に不正があると主張する群衆が開票所に運ばれようとしていた不在者投票の投票用紙の搬入を妨害したため、不在者投票の大半が法的に定められた時間内に開票所に運ぶことができず、300票以上の不在者投票が棄権という扱いにされてしまったのです。
これだけでも前代未聞の事態なのに、両派の住民でヤジや怒号の応酬が起き、開票作業が始まると開票所に向けて投石が行われるという信じられない事態に発展します。一時、投石は収まったものの、開票作業が進むにつれ、開票所の中では各派の立会人で口論になり、傍聴席では両派の住民がつかみ合いになり、開票所の外では再び投石が始まるという事態になります。
そして、樺山候補3,004票、盛岡候補2,900票、森候補38票という結果が発表された直後、激しい投石が始まり、以前の投石と含めて窓ガラス20枚弱が割られただけではなく、投石を止めさせようと開票所2階の窓から1階のひさしに飛び降りた両派どちらにも属さない森候補の後頭部に石が当たり、救急車で運ばれるという事態に発展しました。
開票結果が発表されても騒ぎは収まらず、落選した盛岡候補派は選挙無効を訴え、投票日翌日の午後には約1,200人もの人が役場に押しかけるという信じられない事態に発展しています。
さらに混乱に拍車をかけたのは、本来であれば、公正に選挙を取り仕切るはずの選挙管理委員会も組織的にかかわっていた不在者投票の不正が発覚した他、盛岡候補側に属しているとされていた選管委員長が再選挙が必要であると主張して、当選人の告示をしないまま、雲隠れするという事態が起きたことでした。
このあまりの混乱ぶりに、当時選挙を担当していた自治省の選挙部管理課長が「混乱の発端から異常で、そこへさらに異常な状態がいくつも重なっている」「法が機能する以前の問題」とすらコメントしています。
この当選人が決まらず町長不在という状況は驚くべきことに町議会の勢力図が変わり、選管委員長などが交代する1992年10月までなんと1年半も続きました。そして、樺山候補当選の告示が出ましたが、ここでこの騒ぎは終わりませんでした。
約1年後の1993年9月に、約300票の不在者投票が開票できなかったのは法令違反なので選挙は無効であるとの最高裁判決が下り、再選挙となったのです。ただ、この時は保岡派の樺山候補と徳田派の里井候補の一騎打ちとなったものの、厳しい警備の中で特に激しい衝突は起きず、樺山候補が当選しています。
<文/宮澤暁>