外界との学術交流を渇望する金日成総合大学の教授たち
「作品分析」に負けず劣らず興味深かった授業は、「文学思潮論」であった。私はその授業を、美男子だが少し顔にシワのある男性教員から受けた。
先生は私の前では少し控えめだったが、多くの先生と同じく心根が清らかな人だった。我々はその授業で西洋文学史と思想史を北朝鮮学界の立場から習った。
デカルトの哲学について、先生の提示した正しい分析はデカルトの二元論がブルジョワ階級の登場と利益を正当化するということだった。
その脈絡でダニエル・デフォーの「ロビンソンクルーソー」が出てきたが、ブルジョワ個人主義を体現したものだと言った。
シェイクスピアとディケンズはむしろ進歩的作家として描写されたが、ルネッサンス人文主義の先導者であるシェイクスピアはその作品を通じて封建社会の腐敗を批判し、批判的事実主義を標榜するディケンズは産業革命での労働者搾取を描写することで初期資本主義の批評家としての地位を確立したという。
現代文学思潮においては、批判的事実主義、社会主義事実主義と主体事実主義の正統性を学んだ後に「反動的文学思潮」についての授業を受けた。
「変態文学」と名付けられた作品たちにインスピレーションを与えた退廃的フロイト主義の性的執着は資本主義社会の堕落性になぞらえられるという内容もあったし、ダダイズム、モダニズム、ポストモダニズムを含めた「形式主義」と「自然主義」の腐敗性も強調された。
私は後に、オーストラリアの博士課程にいる友人に、私が置かれていたこのような超現実的状況を冗談めかして話したが、私がいかに狂っていたかを次のように教えてくれた。
私が2018年度に3500米ドルの学費を出し、自らスターリン主義文学理論を学んだというのだ。
そして近代朝鮮文学(日本占領期)の思潮では、読者が推測するように社会主義事実主義に属するKAPF系列作家がたくさん登場する。彼らより前の時代にいた玄鎮健(ヒョン・ジンゴン)、羅稲香(ナ・ドヒャン)といった朝鮮の批判的事実主義作家も出てきたが、金東仁(キム・ドンイン)は形式主義者として扱われた。
私は詩人の李箱(イ・サン)について聞いたが、先生は聞いたこともないと言った。
金日成総合大学の教員たちとの交流からは、彼らの知識に対する渇望を感じた。
彼らは他国の学者とまったく同じだ。私が出会った学者たちは美しく魅力的な人格の持ち主だった。彼らも知識人らしく外国の学者たちと学術交流や協力を望んでいたし、外国の研究活動と外部世界の全般に好奇心を持っていた。
しかし残念ながら北朝鮮の内外的状況は彼らの知的探究を阻害した。
彼らは北朝鮮最高峰の大学の教員であるにもかかわらず、インターネットを使うことが許されていない(我々留学生は寄宿舎で使用できた)。外国の本に触れる機会も特にない。
中国を除く海外の学会に参加し、同じ分野で働く外国人の同僚に出会ったり、彼らと意見を交わす機会を持てない。知識人であろうとする私としても、この状況を寂しく思う。
いつの日になるかわからないが、私の愛する金日成総合大学の教員たちと学術大会で再会することを切に願う。
<文・写真/アレック・シグリー>