生命や生活の維持のために必要な仕事と「ブルシット・ジョブ」
まずは『負債論』が話題になった人類学者のデビッド・グレーバーである。彼はオンライン・メディア「Brut」の
インタビューで「経済とはどうやってケアをするか、私たちが互いに生存するための方法なのです。お互いをケアし、環境にも注意する。そうしないとすぐに大きな問題が生じる」と答えている。
日本語化されているグレーバーの議論で興味深いのは、
「コロナ後の世界と『ブルシット・エコノミー』」と邦題のついた小論である。
この論でグレーバーは、「『経済』を再始動するという表現がなされる時、わたしたちが再始動するよう求められているのはブルシット・セクターにほかならない」と指摘している。
「経営者が他の経営者を管理するこのブルシット・セクターは、広報コンサルタントやテレマーケターやブランド・マネージャー、戦略主幹や創発部長(および彼らを取り巻く補佐役の一群)、学校や病院の理事たちの世界だ」
ブルシット・ジョブ=社会的ヒエラルキーでは上層なのだろうが、実のところ「クッソくだらない仕事」が「経済」なのだと喝破する。一方でたとえば医療や物流、福祉と言った人々の生活を維持する「エッセンシャル・ワーク」の社会的立場についての矛盾、ケア労働としての性格が強いこれら労働に従事する人間の収入、待遇、社会的地位がブルシット・セクターの人間と比して低いことが指摘される。
エッセンシャルワークには、私見ではカフェやバー、居酒屋、書店などといった場での労働も含まれていると見たい。引きこもることとエッセンシャルワークの間を踏まえた議論が期待される。屋内に引きこもり人に会わないことがコロナ対策として、自分と他者にとって良いだろうという感覚がまず大事で、共通項として「世界と生命の維持」を見出すことができる。
そして、マリア・ミースやクラウディア・フォン・ヴェールホフといったエコフェミニストの議論としてある「サブシステンス」=資本主義のための生産ではなく、人びとの生命や生活の維持のための生産、オーストリア生まれの思想家イヴァン・イリイチによれば「人間生活の自立と自存」というものだが、これが両者をつなぐ考え方として注目されても良いのではないだろうか。
グレーバーは、先に挙げた記事の訳注によれば「経済」ではなく「生活」の次元で、カフェ、ボウリング場、大学の再開の問題を挙げている。
また、エッセンシャル・ワークの議論と関連するが、たとえばアメリカではアマゾンの国有化といった
議論も現れている。
労働者の保護と流通網の維持のためにはアマゾンの国有化が必要、という議論だ。それにより労働者は郵便局員と同じ労働組合に加入できる、適切な労働環境を維持できるというのである。
エッセンシャル・ワークの議論に立ち返っても、アマゾンにコロナ禍の中どれだけの人が頼っていたのか、一方でアマゾンの倉庫で働く人々の待遇がどれほどのものだったのかは考えてみて良いだろう。アメリカのアマゾンでは、労働者の解雇に抗議して副社長が辞任している。
そして、完全な形ではないが「ベーシックインカム」が導入されてきていることも指摘しておきたい。
スペインでは5月29日にベーシックインカム制度が閣議で承認され、230万人の国民を対象に、一人暮らしの成人には月462ユーロ(約5万5000円)、家族ならば一人当たり139ユーロ(約1万7000円)が保障されることになった。世帯当たりの所得保障は年1万70ユーロ(約120万円)だ。
日本でも、一度きりながら国内の全居住者に10万円が給付された経験も、皆の生存を保証するベーシックインカム的、ひいては社会主義的な経験だったと少しは考えていいのではなかろうか。
街の人々が10万円の給付金や、持続化給付金について挨拶のように語る光景がいたるところで見られる。
大げさに言えば、右派、左派の別を超え、国家が、社会主義的な政策を取らざるを得なくなったと言う経験を地球規模で得たとも言えるだろう。
コロナ禍の中でもたとえば堀江貴文氏のように、「ロックダウンよりも経済を回せ」といった趣旨のことを語る人物も一定存在していたが、グレーバーの議論を借りれば、実のところ重要なのは経済ではなく「生活」なのではなかろうか。
<文/福田慶太>
フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。