MCバトルで大活躍も内面は「崩壊していた」〜RAWAXXXの数奇なキャリア<ダメリーマン成り上がり道 #30>
2019年、MCバトルイベントKOK2019で優勝を果たしたラッパー・RAWAXXX。これまでもMOL53などの名義で、数々のバトルイベントや音源で活躍してきた彼が、頂点に立つまでの道筋とは? 以前、RAWAXXXに「ブチギレられたこともある」という当連載でお馴染みのMC正社員とともに振り返る。
——MC正社員さんとRAWAXXXさんは、かなり長い付き合いだそうですね。
MC正社員(以下、正社員):「一番最初に会ったのは、戦極MCBATTLEの前身、戦慄MCBATTLEでMOL53としてライブとバトルで呼んだときですね。2010年くらいかな? 当時、Libra Recordsがやっていた有料配信サイトがあって、それを見ていると、MOL53はベスト16で負けるんですけど、俺らの中では話題になっていて。『あのエムオーエルみたいなやつヤバいな』と。で、mixiでコンタクトを取って呼んだ感じですね」
RAWAXXX(以下、RAW):「そのときはまだ宮崎に住んでましたね。その頃は正社員さんのことも知らなかったっす。地元では10代のときから、結構ラップしてるやつもいて、6つ上ぐらいからDJとかが始めて、パーティやったり」
——シーンがあったんですね。
RAW:「それより上は結構よかったんですけど、2つ上からガチガチ縦社会のザ・ヤンキーみたいな。それでスゴい人口が減っていって、俺たちが18になったときには、もう4〜5人ぐらいしかいなかったですね。で、宮崎市内に活動の場所を変えて。18歳以降は宮崎市内のシーンがちゃんとしていたので。ラッパーはいなかったですけど、宮崎にはDJがめっちゃ多かったですね」
——オーディエンスも集まっていたんですか?
RAW:「呼ばれるイベントによっては。チャラいパーティもあったし、スゴいいなたいパーティもあったし。BMXとかダンスとか、バンドとやるとかハードコアの人が出るとか。18歳の頃、そういうミックスされたイベントにレコ屋の人に出させてもらって、そこから2年ぐらいはずっと出てましたね」
——ヒップホップに限らず、ストリートカルチャー全般と関わりがあったんですね。
RAW:「そうすね。そのとき初めてできた感じですね。学校は、卒業してないすけど、当時は通信制行ってたっす。バイトもちょこちょこしてたんですけど、スゴいクビになって。続かないんですよ(笑)。朝起きて、休もうかなと思ったら休んでっていうのが何日も続いて……。30こぐらいバイトしたんじゃないかな」
正社員:「いつ頃からラッパーとして食おうと思ったの?」
RAW:「14歳ぐらいの頃から、就職してどうこうとかは考えてなかったっすね。ラップで食えると思ってたっす。周りにラップで生計を立ててる人はいなかったですけど、自分に自信がありすぎて、25歳までは絶対できると思ってましたね」
正社員:「当時、宮崎にラップで飯食えてる人はいるの?」
RAW:「いないよ(笑)。DJがレコ屋で働きながらとかは全然あるんですけど。レコ屋もやって、アパレルもやってとか、いろいろしないと無理ですよ。でも、一応食えてるDJはいますね」
——先ほど25歳でと仰いましたけど、変わったキッカケは?
RAW:「ファーストアルバムですかね。25歳は区切りがいいですけど、22、23歳ぐらいのときには“崩壊”してたんで」
正社員:「22歳はUMB2013のときかな。2012年にはUMBの決勝でR-指定とやって、2013 年はベスト4でDOTAMAさんとやったんだよね」
RAW:「そのときには、夢とか現実がぶっ壊れてるっすね。その当時の記憶はほぼないっす(笑)。しんどかったっすね。子どもも20歳前に生んで。2〜3歳のときとかしんどかったですね」
正社員:「何がしんどかったの?」
RAW:「まず音楽がしたかったから、家に居たくなかった。家にいるとラグを感じてそわそわしちゃって。って言うぐらい、俺はストイックでハングリーにラップをやってましたね。そもそも寝る時間がもったいなかった。家族を養うっていうのは難しかったっすね」
正社員:「結婚して子供ができたのって何年?」
RAW:「2009年の終わりに生まれてるね」
ジャンルの壁を超えていた宮崎のシーン
ラップへの欲で家に居られなかった
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この連載の前回記事
2020.05.16
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