東西線は元々、東京東部の主要な繁華街であった
洲崎(東陽町)までの計画だったが、総武線のバイパス機能が追加された結果、
東陽町から西船橋までの区間が追加で建設されることになった。
1960年代当時、東陽町から荒川を越えた先にある葛西や、さらに江戸川を越えた先にある浦安、行徳は、湿地が広がる未開発地帯であったため、わざわざ地下を走る必要もなく、「地下鉄」でありながら高架線として建設されることになった。
1969年、東陽町~西船橋間の延伸開業に伴い、東西線は地下鉄としては初めて本格的な快速運転を開始する。高架区間の最高速度はこれまでの地下鉄の最高速度を大きく超える時速100キロ。西船橋~日本橋間が最速20分で結ばれた。
快速運転の目的は、千葉から都心までの所要時間を短縮し、より多くの利用者を総武線から東西線に流し込むことである。そのため、当時の快速運転は朝のラッシュ時間帯でさえも、西船橋から東陽町まで一駅も停車せずに運転をしていた。
ところが、日本橋、大手町まで地下鉄1本で出られるようになった、葛西や浦安、行徳の町並みは一変する。東西線沿線は住宅地として注目され、一大住宅地として変貌したのである。例えば、1960年にはわずか7.6万人だった江戸川区の人口は、1980年には16.6万人、2000年には25.9万人に増加。その結果、東西線では1979年に西葛西駅、1981年に南行徳駅、2000年に妙典駅と新駅が3駅も設置され、利用者は右肩上がりで増えていった。その結果、東西線は東京の地下鉄の中で一番混雑する路線になったのである。
東西線の役割は、中央線、総武線のバイパスから、沿線住宅地の利用者を都心へと運ぶことへと変化していった。当初、西船橋から東陽町まで全ての駅を通過していた快速列車も、浦安に停車するようになり、葛西、西葛西、南砂町に停車するようになり、今では一部の「通勤快速」が西船橋~浦安間を通過するのみとなっている。
これまでの地下鉄は既存の市街地に建設されることが多かったが、東西線の整備は、未開発の地域に都心直通の地下鉄を建設すると、その地域が近郊住宅地として変貌することを示すこととなった。
<文/枝久保達也>
鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。