香港の都市暴動について興味深い分析がある。「2014年の雨傘運動の時にはリーダーがいたが、今回の暴動ではリーダーがいない」というのだ。
リーダーがいない…。被曝を恐れる人々による、放射性物質の計測をする動きと同じだ。小グループを作って土壌や食品に含まれる放射性物質を測定したりするのだが、統一的な運動として展開されたというよりも、個別の人間が自発的に行ったのである。
もちろん、こういうことを言うと東北のことをどう思っているのか、とか、福島のことをどう思っているのか、と言う批判が来るのはわかる。パニックを肯定するのかという批判もあるだろう。ただ、政治的な好悪や価値判断、善悪、といった問題設定を超えて、「放射脳」とも言われる人たちがとった行動に「蜂起」性があったことは認めても良いのではないだろうか。
これはもしかしたら悪魔的なことかもしれないし、もしかしたら恐ろしいことかもしれない。そして、この動きが反政治的であったことも記しておきたい。放射能に対する施策を行政や政府に求めることもあるかもしれないが、その動き方は、むしろいわゆる政治からこぼれ落ちるものを重視していた。そして、その中に大衆的な知見、知性を作り出そうとする動きでもあった。「蜂起は終わりなき動詞だということを忘れない『大衆知性』だ」(マニュエル・ヤン『黙示のエチュード』新評論)なのである。
放射能について怯えることは様々な時間のスケールを知ることである。放射性物質の半減期を考えると、その被害がなくなるまでにどれほどの時間がかかるのだろうか、ということだ。
来年7月までの延期が決まった東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーの出発地、福島県楢葉町のJヴィレッジでは、その周辺の駐車場の線量が昨年12月に環境省が線量低減措置をとる前で1.79マイクロシーベルト(地面から1mの高さ)、線量低減措置後も0.39マイクロシーベルトという数値を出している。
昨年10月のグリーンピース・ジャパンの調査では、一帯の一部に毎時71マイクロシーベルトのホットスポットが見つけられている。原発事故前の数値の1,775倍という数字だという報道があったが、事故から10年目でもホットスポットはこのようなことになっている。
放射性物質の半減期を考えてみると、原発の放射能によって、いやでも時間のスケールの複数性や遠大さを知らねばならないことになったのだ。放射能そのものに対して運動は目標を設定しようがない。世代を超えて、といっても収束までに何世代かかるのだろうか。放射能問題はどうにもならない澱として心にずっと引っかかる。問題はそう簡単に解決しない、という諦念も養われる。
それでも、自分や他人の身体や生活を守るためにはどうするか、考えなくてはならない、という状況を見すえざるを得なくなる。
自分ひとりで時間も諦念も引き受けなくてはならない。集団的である一方で、たったひとりでの蜂起、暴動でもある。
新型コロナウイルスに世界が揺れている。世界中がロックダウンしている。日本でも非常事態宣言が全国に拡大されている。発症者もいまだに増えている。4月21日時点で、ジョンズ・ホプキンス大学によれば世界では247万8634人が発症しているという。この状況の中で日本の放射能をめぐる一連の民衆的な動きが何かの知見となるだろうか。コロナウイルスと対峙しながらなお「非常事態」の言葉の中で吹き飛ばされない思考や行動のために、放射能問題で揺れた日本の人たちの経験は役立つことができるだろうか。
追記すれば、1人10万円の支給をめぐる要求の中に、リーダー不在の民衆のうねりがあるとは言えるだろう。10万円欲しいというむき出しの声。事態は切迫している。実際に生活が脅かされている人は多い。生存のためには金という声。政党も政治も行政も手段でしかない。そういったものの指導に服するのではなく、金を出すべきだという無媒介の要求、むき出しの声にも、ある種の暴動性があるといっていいだろう。
給付申請に給付を希望しない人はチェックを入れる、撤回したものの、湯崎英彦・広島県知事が県職員に給付された分は県のコロナ対策のために使用するというのは、むき出しの要求に対して為政者側が対抗しているというわけだ。放射「脳」が無媒介に自分で計測などに動いたということと、新型コロナ禍を受けて、政府に生存そのものの保証を求める人びとの動きには、通底するものを読み取るのは不可能ではない。
<文/福田慶太>
フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。