悲劇と予言とは非常に重要な関係がある。あえて紹介する必要はないかもしれないが、二つの古典的な悲劇を見つめてみたい。まずはギリシア悲劇として非常に有名な『オイディプス王』で、あらすじは以下のようなものだ。
テーバイの王ライオスが子をもうければその子供に殺されるという神託を受けて、自らの子供を山中に捨ててくるよう牧人に命令する。捨てられた子供・オイディプスはコリントスの王に拾われて育てられるがやはり同じように、自分はいずれ父親を殺すことになるという神託を受け、その予言がかなわぬものになるようにコリントスから離れる。
オイディプスは旅の途中でライオスと出会い、いざこざの果てに実の父とは知らず殺してしまう。その後彼はスフィンクスのなぞかけを解いてテーバイを救い、実の母(もちろん知らない)であるイオカステを妻にして王となる。
だが街では疫病や飢饉がつづき、原因を探るために占い師を呼ぶと、この街に父親を殺し、母親と交わったものがいることによって呪われているのだと告げられる。やがてその犯人はオイディプスだということがわかる。オイディプスはその事実に衝撃を受けて、自ら目をつぶし、娘のアンティゴネーを連れて放浪の旅に出る。
もうひとつはシェイクスピアの三大悲劇のひとつ『マクベス』。
魔女に「コーダーの領主になる」、「いずれ王になる」という二つの予言を受け、まずはコーダーの領主になったマクベスは、欲を出してスコットランド王のダンカンを謀殺し、自分がスコットランド王となって予言を実現させる。もうひとり、魔女の予言を受けたバンクォーは「子孫が王になる」と告げられており、予言を恐れたマクベスはバンクォーとその息子フリーアンスに暗殺者を差し向けるが、暗殺に成功したのはバンクォーのみで息子には逃げられてしまう。
不安にさいなまれるマクベスは再び魔女のもとに訪れて予言を乞う。そこで「女の股から生まれたものはマクベスを殺せない」「バーナムの森が攻めてこない限り死なない」という予言を受ける。
やがて殺し損ねたフリーアンスや、ダンカン王の息子らの束ねるイングランドとの戦争になる。二つの予言を信じて戦うマクベスだが、イングランド軍はバーナムの森の木の枝を隠れ蓑にして移動し、あたかも森が移動しているかのように見える。さらにマクベスに妻子を殺された貴族マクダフとの決闘で、マクダフが「母の腹を割って産まれた」ということを告げられ、マクベスは彼に殺されることになる。
この二つの悲劇では予言が非常に重要な役割を占めている。他にも探せば多くの予言を引き金にした悲劇を見つけることができるだろう。予言から逃れようとすることによって、かえって予言のほうへと近づいてしまう。このような悲劇の構造を村上春樹は「人が運命を動かすのではなく、運命が人を動かす」と書いていた。『100日後に死ぬワニ』はタイトルそのものがひとつの予言であり、ワニが死を予見することはないが、その予言とワニの関係性(ワニは生きることに積極的だった)からひとつの悲劇的な構造を持っている、と見ることができる。
『100日後に死ぬワニ』の物語の最大の特徴はそのアンビバレンスさにある。「100日後に死ぬ」という作者の予言によって、ワニは100日の間は死ぬことのない存在になる。彼の死が宣言されることによって、彼が「生きている」ということが逆に浮彫になる(それはニュースで誰かが死んだと聞いた時、はじめてその誰かが生きていたことを知るのに少し似ている)。100日目が近づくにつれて、ワニは恋人ができ、ぼんやりとした目標ができ、楽しみが増えて、死から遠ざかっていく。
だが予言通り、ワニは死ぬ。奇を衒うようなことはなく、それまでと同じようにごく日常的にあっさりと死ぬ。作者の100日に及ぶ予告された殺人は完遂され、終わる。
この作品が非常に大きな反響を呼んだのには、SNSというツールの特性や、きくちゆうき氏のイラストレーションのうまさなど様々な要因があるだろうが、このような物語の構造も大きな要因のひとつだったのではないかと思われる。
<文/市川太郎>
1989年生。立命館大学文学部卒業。劇作家、演出家。主な作品に「いつか、どこか、誰か」(GEKKEN ALT-ART SELECTION選出作)、戯曲「偽造/夏目漱石」(BeSeTo演劇祭+参加作品)、「もう、これからは何も」(アトリエ劇研演劇祭参加作品)、「愛だけが深く降りていくところ」(「自営と共在」展参加作品)など。