相模原事件裁判死刑判決を障害当事者はどう見たか?「守られる」障害者像からの脱出を目指して

津久井やまゆり園

居住棟の撤去工事が終わった津久井やまゆり園(時事通信社)

 津久井やまゆり園の相模原障害者施設殺傷事件から4年の月日を経て、植松聖被告に死刑判決が下った。事件から3年を迎えた昨夏に、障害当事者の視線から事件を振り返ってくれた、自身も脊髄性筋萎縮症(通称:SMA)を抱える東大生、愼允翼氏に、今回の判決を受けて寄稿をお願いした。以下は、愼氏の寄稿である。

判決へのコメントと問題のありか

 2020年3月16日、事件発生から4年の月日を経て19人のかけがえのない命を奪った植松聖に対して、横浜地裁は死刑判決を言い渡した。私が率直に考えるのは、死刑という「罰」が彼の「罪」をいかにして贖い得るのかという問題である。日本の司法は死刑「制度」を持つ都合上、それを判決として下すか否かの「選択」を迫られる。そのため、彼を死刑にした場合「それで終わり」とされかねないし、逆に死刑でなければ、障害者の命は「軽い」とされかねない。ここに、法という第三者と共有する社会秩序によって個人を裁くことの、ある種普遍的な課題が我々に示される。そして死刑判決が下されたいま、我々は「それで終わり」にしない努力を模索する新たなフェーズに進んだとみて良い。  この先行き不透明な課題を打破しうる方法は、まず「赦し」だろう。それは刑に服する「交換」として与えられる「許し」とは別な「非―交換」の象徴である。そして何よりも植松に対して多くの人が「裁きたい」と思う彼の本質に唯一届く手段である。彼を身体的に殺害しても19人の命は帰らないからだ。そして「赦し」は彼に悔悛や自己批判という「生まれ変わり」を要求することだろうが、それでもやはりそれは死刑と同じように「正常」さを時に暴力的方法で押し付ける「社会秩序」の匂いがする。だから実は植松だけでなく、我々こそ「生まれ変わる」ことが必要なのかもしれない。  本稿ではそうした我々がそれによって安全に生き、自明化して疑わないところの「社会性」に対し、勇気を持って批判の目を向けてみようと思う。それは「守られる」障害者像が迎えた危機を前に、無理にそこから継ぎ接ぎするのではなく、前人未到の「連帯」に向けて我々自身が新たに「生まれ変わる」ことを要請する。その中には到底受け入れがたいと思える議論もあり得るだろうが、どうかゆったりした気持ちで考えてみてほしい。ネット記事というのはそれぐらいで読めば良いのだし(書く側は真剣でなければならない)、そうした「余裕」の上にこそ第三者であってこの問題を負わなければいけない第一者であるところの我々が、名前も知らない19人(美帆さんを含む)に絶えず思いを馳せる努力は成り立ち得るのだから。

従来の語られ方の問題と植松の「愚かさ」

 まず我々が植松の思想(それを「思想」と呼ぶのかは保留)についてこれまで語ってきた方法は、そもそもどの程度彼に届き得たのだろうか。優生思想やネオリベラリズム、ヒトラーやニーチェ(ニーチェについては植松自身も言及しているようである)を持ち出すものもあった。あるいは19人の隠された思い出を語ることを通して、「重度心身障害者にも価値がある」と言ったものをあった。そのどれもが傾聴に値すべきものであることは言うまでもない。  しかしまず前者についていえば、たとえば植松はニーチェを持ち出して自己を正当化しようとしていたが、それは植松が「社会」に対して「社会的」な言葉で行った自己正当化の表層であり、前者はそれと知らず乗っかってしまい、彼が実際に見て感じたところの彼の言葉を「社会性」の裏に隠してしまうだろう。実際、やまゆり園には「心失者は不幸を生むだけ」と彼に思わせる何かがあった。現在もなお第三者委員会による調査は続いているが、すでに身体拘束と汚物の放置などといった虐待の半日常化とその隠蔽が指摘されている。そして何よりも、植松は最初から重度心身障害者を殺すためにそこで働いていたはずがない。我々はその問題をこそ克服しなければならないのであって、彼自身が誰かに理解されようと発する「ヘイト的」(それはその理解領域に入る人を確実に招く何かである)言葉に振り回されてはいけない。それは自己正当化のための「表皮」に過ぎない。  次に後者についていえば、以下に述べるのは施設職員や家族など「被害者側」(彼らは第一義的には被害者ではない)を批判することかもしれないが、彼らの言葉が実際に植松に微塵も響いていないという弱点がある。どれほど家族が被害者一人一人への「愛」を語っても、「意思疎通のできない障害者にも生きている価値がある」と対抗的な「正義」を叫んでも、それは植松が感じたことを覆すきっかけにはなり得ない。  なぜならば、彼は直感的に確信しているのである。自分たち家族が「差別」を受けることと「真相」の追求を天秤にかけ、被害者の名前を隠すことをやむ無しとする人々の欺瞞を。重度心身障害者を「保護してあげなければならない非自立的主体」とみなし、基本的人権の名の下に山奥に隔離する(その中で場合によっては非人道的扱いをする)上から目線を。彼はそんな欺瞞と上から目線を「悪」と見なしているからこそ、その声を聴こうとはしない。  だが、植松の「愚かさ」というのは、こうした「社会的」な通念の欺瞞と上から目線の「悪」の原因を社会や施設や家族にではなく障害者の側に向けた、倒錯的かつ自己同一化された「社会性」と結びついている。「心失者は不幸しか生まない」というのは社会や施設や家族の「悪」を、本当はそんな社会や施設や家族は彼が出会った限りという意味の「部分」に過ぎないのに「全て」とみなす、「愚かな」倒錯である。また社会や施設や家族の「悪」を見抜いたはずの他でもない彼自身が「愚かにも」その「悪」を内面化してしまったのは、彼自身が「社会的」な通念を短絡的に自己同一化したからとも言えよう。その意味で彼は自分の考えを「深み」まで進めることに失敗していると思われる。だから植松が生まれ変わるには我々はこう言わなければいけない、「愛と正義を否定しよう」(青い芝の会)、「意思疎通?生産性?社会的価値?それなんですか?」と。
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「社会か行き倒れか」という強迫に抗う自由
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