新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。

「例外状態」における人間疎外

 「例外状態」とは本来、法規範とその適用の間にある、換言すれば当為と事実の間にある、どちらともつかないアノミーの地帯のことを指していたはずだ。しかし『政治神学』におけるシュミットのように、決断主義を採用することで「例外状態」を法規範のうちに取り込んでしまったとたん、「例外状態」はとたんに物象化し、人民の思考を支配する。月曜日からの休業を木曜日の夜に決めるなんてどうかしてる?確かに普通ならば。だが今は緊急事態なのだから仕方がないだろう。学校を休校すると子どもを預ける先がない?なるほどそれは大変だ。しかし今は緊急事態なのだから何とか耐え忍んでくれ。イベントを休業すると収入がなくなる?かわいそうに。しかし今は緊急事態なのだ。何とか協力してくれ。野党はいちいち政府の批判をするな。今は国難だ。戦時下と同じだ。一致団結せよ……。  「緊急事態」の宣言は、それまでの法や制度を一気に破砕するだけでなく、国家が人民に対して負うべき責任や義務をも破砕する。そしてそれは、それを法として理解してしまった人民にとっても、仕方がないものとして受け止められてしまうのである。  シュミットの「例外状態」をミシェル・フーコーの「生権力」論によって読み解くジョルジョ・アガンベンの試み(※4)のように、これを人間の権利の側面からみてみると、「例外状態」において主権者は、法や権利を停止させ、人間の生を宙吊りにしたうえで、人間と人間の間に線引きを行っているといえる。  もしテロリストの攻撃を止められるなら、(アブグレイブ刑務所のように)捕虜に拷問することも許される。「子どもの安全」という抽象的な大義のためなら、学校を休業して困る人がでたとしても仕方がない。「中国人お断り」は差別ではなく、公衆衛生のための当然の処置である……。「例外状態」において、普遍的な人権は停止され、新たな境界線が引かれる。もちろんそこで人間的なものの恩恵を受けられないのは、常に弱い者の側である(非正規、貧困、シングルマザー……)。  そして「緊急事態」の宣言が、主権者の決断に根拠を置くのであれば、理論上、こうした人権の停止はいつでも起こりうることになる。「例外状態」と「通常状態」の境界は消滅し、私たちはいつでも、宙づりにされた生(アガンベン的に言えば「剥き出しの生」)を生きることになるだろう。  しかし、一時期盛んに主張された「決められない政治」から「決められる政治」へというスローガンが示すように、我々の社会では決断こそが指導者のなすべきこととみなされている。「例外状態」において、むしろ弱者を排除するような「苦渋の決断」をすればするほど、かれは「優れたリーダー」とみなされることになるのである。これは安倍晋三についてだけ述べているのではない。大阪府知事や北海道知事に対しても当てはまる。

おわりに

 3月9日、安倍首相は、今回の状況を「歴史的緊急事態」とした。13日には、緊急事態条項を盛り込んだインフルエンザ法を援用した、コロナ新法が制定される予定である。同法では私権制限についての政府の行動は極めて限定されている。しかし上述の通り、「緊急事態」において、政府のなしうる行動は事実上歯止めはないのである。  私たちは、コロナウイルスによる危機に立たされている。もちろん感染症のパンデミックは恐ろしい。しかし――ある意味ではそれ以上に――恐ろしいのは、コロナウイルスが人権に代わる新たな価値尺度として、「緊急事態」における法秩序の王冠(corona)となることである。それは、日本国憲法が事実上改憲されたのと同じ効果をもたらす。  だから、「緊急事態」を煽り、人間の生を「剥き出しの生」へと切り詰めようとする言説に対しては、抵抗していかなければならない。全国的な学校の休業は、もし必要であったとしても、超法規的な方法によってのみ可能となるわけではない。たとえば休校のデメリットを予測し、必要な支援策を「事前に」定めておくことで、各自治体の教育委員会に自然と休校の決断を促すことは可能だったはずである。「今は緊急事態なのだから黙っていろ」という圧力に抗して、こうした批判を続けていく必要がある。  目に見えないウイルスによって、我々の生命は脅かされている。しかし、いかに生命の危機だからといって、我々の生命そのものを国家に売り渡す必要はないのである。 【参考文献】 ※1 石川健治「すべての人が負けたのだ―安保法制「一億総活躍」思想の深層を探るー佐々木惣一が憲法13条を読む」WEB論座 2016年2月23日付 ※2 Carl Schmitt, Politische Theologie, Duncker & Humblot, 2009(2. Aufl., 1934), S.16 ※3 Ebenda, S.13 ※4 ジョルジョ・アガンベン(上村忠男・廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年。 <文/北守(藤崎剛人)>
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82
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