『1917』のワンカット映像は、戦争の原体験、すなわち言語によって分節化(=カット)される前の体験を再現しているといえる。当時、塹壕の中にいた兵士たちは、自分の身に起こりうる出来事を選べなかったはずだ。かれらが進む先には何があるかは分からない。暗い通路、丘の向こう、川の先に何があるかは、そこに辿りついて初めて分かるのだ。昨日は突撃、今日は撤退。兵士は突然命令を受け、そして突然死ぬ。解釈の余地が与えられぬまま次々と生起する出来事の連続の中で、兵士たちの「期待の地平」(R・コゼレック)は裏切られ続ける。かれに降りかかる出来事は、避けようがない「運命」と呼ぶほかないものだ。
一方で、この物語はもちろんフィクションである。したがって現実の兵士とは異なり、作中でスコフィールドに起こった出来事は、すべて綿密に計算され、演出されたものである。周到なカメラワークで、少しずつ全貌が明らかになっていく戦場の風景は、極めて幻想的である。客観的でリアルな世界を描こうとしているというよりは、初めから主観的な、登場人物の心象風景を描こうとしているようにみえる。炎に包まれる廃墟の町は地獄を模されている。そして、そこから逃れたスコフィールドが流される川はヨルダン川に喩えられていが、まさに、ヨルダン川は死と生誕の川なのである(川に花が舞い散るシーンは、有名なオフィーリアを描いたミレーの絵画を思わせるが、それは映画『オフィーリア』でハムレットを演じたジョージ・マッケイに関する役者ネタかもしれない)。
象徴的に解釈された心象体験をつなぎ合わせ、ひとつの連続的な体験として構成してみせる。このシークエンスとしての歴史体験がこの作品の特徴なのだ。リアリティという観点からみれば、この映画は非現実的な戦争を描いている作品に分類されるだろう。それにも関わらず、歴史の再帰的な追体験という意味では、この物語は戦争についてのひとつの解釈型をなしている。ラストシーン、スコフィールドが故郷の家族の写真を眺めるのをみて、我々は彼の戦争体験が、「行きて帰りし物語」だったということを知る。
『1917』は、様々な場所、様々な困難を乗り越え、目的地にたどり着く、旅の物語である。しかしその旅は一方通行だ。物語は、司令部を出発した兵士が、前線の大隊長へと伝令を届けることをもって終わっている。彼がその後、いかにして前線から撤退したかについては描かれてはいない。
しかし、これをスコフィールドの心象体験の物語として考えるとどうなるか。ストーリーの初めの頃の彼はどことなく厭世的な、「故郷喪失者」(M・ハイデガー)であった。これは圧倒的な大量死をもたらしたソンムの戦いのせいかもしれない。
ともかく、そんな彼が、相棒であるブレイクの死に直面し、また彼自身も象徴的な死を迎える。そして廃墟の町の地獄を経て、「ヨルダン川」に流され、清められ、さくらんぼの花とともに再び誕生する。再生した場所で彼が聴いたのは、アメリカ民謡として知られる”Wayfaring Stranger”だった。
“私は悲しい放浪者 悲惨な世界を旅してる
病も苦役も危険もない 煌めく世界を私は目指す
私は父と邂逅し もうさまようこともないだろう
ヨルダン川を越えるだけ 故郷に帰るだけ”
スコフィールドは、目的の部隊と合流することに成功し、撤退の命令を伝える。すべてが終わった後に彼が出会うのが、ブレイクの兄である。彼はブレイクの兄に、弟の死を伝える。
ブレイクはスコフィールドの旅路の果てに、ヨルダン川を越えて兄のもとに帰り、故郷へと帰った。生き残ったスコフィールドは、ここで家族の写真を取り出す。この「故郷喪失者」は、故郷を取り戻したのだった。
”Wayfaring Stranger”の歌詞に出てくる故郷(home)が、単に生まれ育った場所としての故郷を意味するのではなく、もっと宗教的な、魂の安らう場所のことを示唆しているのは重要だろう。彼は故郷を取り戻すことを通して、自分自身の生を取り戻すのだ。
故郷を離れた放浪者が、旅路の果てに故郷を取り戻す。ウィリアム・スコフィールドの戦争体験は、「行きて帰りし物語」といえる。さらに付言していえば、それが生き残ることのうちに見いだされる限りにおいて、彼の体験は「生きて還りし物語」なのだ。
<文/北守(藤崎剛人)>