次に、1980年代の地図を見てみよう。1984年になると、1959年の地図には多く見られた「旅館」「ホテル」がかなり減少する。変わって登場するのが、「トルコ風呂」である。
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1984年の《難波》
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1989年の《難波》
住宅地図において「トルコ」と書かれた敷地を青で示した。「トルコ風呂」は、現在のソープランド(個室付き特殊浴場)である。1951年、銀座に誕生した「東京温泉」がその走りで、当初はマッサージのみを行う健全な営業だったが、昭和30年代以降は風俗営業を行う店が増加していった。1958年に売春防止法が施行され、それまで風俗営業を行っていた赤線が禁止されたことで、業態を転換する業者が相次いだことが増加の一因である。
《難波》においても、1970年代以降に「トルコ風呂」が増え、1984年には図の範囲だけでも39もの店舗が見られるようになった。しかし、1989年にはこれらの「トルコ風呂」は完全に姿を消す。これは、トルコ人留学生の抗議によって、1984年末に「トルコ風呂」という名称の使用が認められなくなったためである。ただし、名称が変更されただけで営業は続いており、1989年の地図にもそれと思しき店舗名は見られる。
また、同じく1984年には風営法が大幅に改正(施行は翌年)され、ラブホの新規開業がより難しくなった。これによって、ラブホの数は全国的に減少することとなる。1984年は、風俗業界が一変した年であった。
もう一つ注目してもらいたいのは、西心斎橋2丁目における「旅館」「ホテル」の減少である。ここには、「性」の街としての《難波》の大きな流れが現れている。
《難波》ラブホ街の大きな流れ、それは、北から南へのラブホの大移動である。1959年からの《難波》の変遷をまとめると、以下のようになる。
1959〜2015年の《難波》
この図からは、
北側の西心斎橋2丁目から、南側の道頓堀2丁目・難波2丁目へとラブホ街が移動したことが見てとれる。1959年には多くを占めていた「旅館」は、1980年代に入るとほとんど姿を消す。それに代わって、「トルコ」が出現するが、1984年を過ぎると消滅し、今度は「ホテル」が南側で増加していく。なぜ、このような移動が起こったのだろうか。
その答えは、現地を見るとよく分かる。現在の西心斎橋2丁目や、その北にある炭屋町は、大阪の若者が集まるファッションストリート「
アメリカ村」となっている。1960年代まで、この一帯は倉庫や駐車場に混じってラブホテル・旅館がある程度の、明るいとは言えない街だった。しかし、1970年代以降、
繁華街・心斎橋の近くにありながら地価が安いという条件を活かし、デザイナーたちが店を構えるようになった。その後つぎつぎとアパレル店が開業した結果、ラブホ街は押し退けられ、西心斎橋2丁目付近はファッションの街となった。
一方、南側の道頓堀2丁目・難波2丁目は、間に道頓堀川を隔てていることもあり、服飾関係の店は進出してこなかった。むしろ、道頓堀の歓楽街の延長として、居酒屋やバーが集まる享楽的な雰囲気の街であった。このような街のイメージの差異が、ラブホ街の“南進”を招いたと考えられる。あるいは、できる限りラブホテルを狭い範囲に押し込めておきたいという行政側の誘導もあったかもしれない。
アメリカ村の中心となる御津公園。「三角公園」と呼ばれ、若者が多く集まる。(筆者撮影)
以上が《難波》ラブホ街の変遷である。現在も多数のラブホテルがひしめく《難波》であるが、歴史を遡ると今以上に“色”の濃い街であったことが明らかになった。連れ込み旅館、ラブホテル、「トルコ風呂」など、《難波》の店々の消長には、日本の戦後風俗史が現れている。
ラブホ街の歴史については、すでにいくつかの本が出されている。本稿も、先学の研究成果を参照している。ラブホ史に関心を持った方は、ぜひ以下の文献にもあたっていただきたい。
[参考文献・資料]
井上章一(1999)『愛の空間』角川書店
金益見(2012)『性愛空間の文化史 「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』ミネルヴァ書房
近藤利三郎(2006)『なつかしの関西ラブホテル60年 裏のうらのウラ話』レベル
『
ゼンリン住宅地図 大阪府 大阪市 中央区 南部』ゼンリン,2005・2015年
『
精密住宅地図 大阪市中央区』吉田地図株式会社,1959~1994年
そのほか、筆者による以下の論考では、神社の門前に形成されたラブホ街について考察している。こちらも併せて読むと、大阪のラブホ街をより立体的に見ることができるであろう。
重永瞬(2019)「大阪市天王寺区生玉町におけるラブホテル街の形成と変容」志学社論文叢書
◆「ラブホテルの地理学」3
<取材・文・撮影/重永瞬(都市商業研究所)>