シンクライアントを実現するには、いくつかの方法がある。大きく分けると、
ネットブート型と
画面転送型に分かれる。また、画面転送型は、その方式によって3つに分けることができる。
ネットブート型は、
サーバーにOSイメージ(OSやアプリケーションなどのデータ)を置き、そのイメージをクライアントに送って起動させる方式だ。イメージとしては、ネットワークを通して Windows が送られてきて起動するようなものだ。サーバーの負荷は少なくて済むが、ネットワークの負荷は大きい。この方式で作成したデータは、ネットワークを通して
サーバーに保存される。データがネットワークを流れるので、セキュリティ的な対策も必要になる。
画面転送型は、サーバーでOSやアプリケーションを実行して、クライアントにはその画面だけを送る方式だ。ユーザーがクライアントで操作をおこなうと、その操作の情報がサーバーに送られて、サーバー内で計算がおこなわれる。データはネットワークを流れないので、セキュリティ面ではこちらの方が安全だ。
画面転送型の3つの方式を紹介する。1つ目は、
サーバベース型。サーバー上でOSが立ち上がり、そのOSやアプリケーションを、ネットワークでぶら下がった複数のクライアントが共有する方式だ。アクセスが集中すると負荷が高くなったり、OSやアプリケーションのライセンスが複数人で使えるようになっているかなど、クリアしないといけない問題は多い。
画面転送型の2つ目は、
ブレードPC型だ。これはサーバー側に、ブレードPCと呼ばれる特殊なコンピューターを、人数分用意する方式だ。普通に考えれば分かるように、高コストになってしまうという問題がある。
画面転送型の3つ目は、
仮想PC型だ。サーバー上に仮想のデスクトップ環境を作り、そこにクライアントがアクセスする方式だ。たとえば Windows でも、仮想マシンを起動したりできるのは知っているだろうか。そのサーバー版だと思えばよい。
この仮想PC型は、サーバー資源の増強などもおこないやすく、クラウドコンピューティングとも相性がよい。そのため現在では仮想PC型が主流になっている。
Google の Stadia など、ゲーム業界でもシンクライアント
こうしたシンクライアントは、クラウドコンピューティングの普及から分かるように、セキュリティ以外の目的でも使用される。
今年になって、何度も名前を聞いている、Google の
Stadia も、シンクライアント方式だ。Google が持つお化け級のサーバーで計算をおこない、クライアントには動画としてゲームの画面を流す。
ただ、遅延がよく発生したりと評判はあまりよくないようだ。高速で信頼できるネットワークの方が、ユーザーが高価なグラフィックボードを積んだパソコンを買うよりも、現状では難易度が高いのだろう。最終的に快適に遊べるようになるかは、今後の環境の変化によって変わるだろう。
本質は方式ではなく、都合の悪い記録を抹消することの常態化
いろいろとシンクライアントについて書いた。しかし、冒頭でも述べたように、そこは本質ではない。どの方式を採用したとしても、
記録の破棄や改竄をおこなわないようにすることが大切だ。
削除したファイルが復元できるかどうかは、削除した時期とファイルシステムによる。多くのファイルシステムでは、ファイルの削除は記録媒体上のファイルを消すのではなく、そこに書き込まれているという情報だけを消す。そのため、ファイル自体は記録媒体に残されている。
しかし、時間が経てば、そこは書き込んでもよい領域なので、他のデータが書き込まれて消えてしまう。特に、多くの人が共有して使うサーバーのように、頻繁にファイルの書き込みがあるシステムでは、ファイルの復元は困難になりやすい。そもそも復元のためだけに、サーバーを止めるのかという問題もある。それに対して個人で使うパソコンのHDDでは、書き込み頻度も低く、連続した領域にデータを書き込んでいくことが多いために、復旧は比較的実現しやすい。
しかし、個人で使うパソコンでも、SSDのようにファイルが分散して書き込まれる方式では、復元はかなり困難になる。SSDは、記録素子の寿命があるために、どこに何回書き込んだかを確かめながら、書き込み回数が少ない場所にデータを分散して保存していく。そのため、不連続な広大な場所にファイルが保存されており、ファイル削除後の復元は困難になる。
私はプログラムを書き、ゲームやアプリケーションを開発している。そうしたとき、ゲームやアプリケーションを改良するのに最も大切なものは「適切なログ(記録)」だ。記録なしに、問題を突き止めて改善することはできない。
現在の
日本の上層部の記録に対する軽視は、プログラマー視点で見れば「改善する気がない」と言っているように見える。現在の、そして
将来の人々がよりよい社会で暮らせるように、記録を重視して欲しいものである。
<文/柳井政和>