続いては、鑑賞しながら一番気になっていた点。アーサー=ジョーカーが犯す犯罪について、どのような答えを出すのかという部分だ。初めは巻き込まれる形ではあるがアーサーは殺人を犯し、その後も現実か虚構か定かではないが、人を殺していく。
そんなアーサーはクライマックスでついに念願だったトークショーに出演し、これまでの不満をぶちまける。そして、彼と対峙する司会者マレーから、究極とも言える質問を投げかけられる。「だからって人を殺していいのか?」。
これは致命的な質問だ。本作に限らず、ヒーロー映画では常にその質問がつきまとう。80年代以降、原作のコミックスでも勧善懲悪の作品は減り始め、ヒーローは法の外で活動をすることの是非を問われ、そもそも正義とは何かという問題に直面することになる。
一方のヴィラン(悪役)も、さまざまなバックグラウンドが描かれるようになり、ヒーローと表裏一体の関係であることが強調されるようになった。これは現実世界でも同じことで、より複雑になっていく社会で白黒ハッキリと決めることはもはや不可能である。
ではそんななか、アーサー=ジョーカーは自分の罪に対して、どう答えるのか……。そもそも答えないのである。
コミックスでも映画でも、基本的にジョーカーは理屈で説明できるキャラクターではなく、そこが人気の理由だ。なんで罪を犯すのかわからない、何が目的なのかわからない。そんなカオスな存在がジョーカーなのである。
しかし、本作はそんなジョーカーが生まれるに至った経緯を説明するはずが、政治的要素を入れながら政治的ではないという。暴力を振るうことの是非にも答えなければ、誕生した理由も不明、そもそもアーサーがジョーカーになったのかすらも定かではない。
その答えを埋めるのが観客の楽しみでもあるわけだが、本作にはトラックはあるが作り手や主人公の歌がなく、キャラクターや舞台設定は整っているが、それらは観客が意思を投影する器にしかすぎない。
乱暴に言ってしまえば“無責任”であるわけだが、ジョーカーというキャラクターはまさにそこが魅力なのでよしとしても、作品全体からはなんらかのメッセージを感じたかった。これは何かしらの答えを強いられるヒーローの不在も大きかっただろう。
ある意味、本作はSNS時代に相応しい作品なのかもしれない。プラットフォームが用意され、そこには膨大な量の情報が流れていく。好きなものだけを見てもいいし、自分の意見を投影させることもできる。
しかし、プラットフォームそのものには意見も意思も主張もない。それは果たしてアートと呼べるのだろか? 作り手はさまざまな問いや仕掛けを与え、観客はただそれを消費していく。美味であると感じた人が多いようだが、ジョーカーがメインディッシュであるはずの本作で、筆者には空の器しか見えなかった。
その器はたしかに美しく、いろいろな料理が載った姿を思い浮かべることはできるだろう。それでも映画館を後にした筆者の腹を満たしたのは、ポップコーンとコーラだけだった。
<取材・文/林 泰人>