私が特に興味深く感じたのは、
高度経済成長期のフェミニズム運動と現代のフェミニズム運動は全く異なるということだ。ひとつのカテゴリーとして女性を捉え、「『女性はこういう苦しみを抱えているもの』と多くの人に想像がつきやすかったから、今ほど『わがまま』とは思われなかった」のが、かつてのフェミニズム運動だった。しかし現代では、女性が共有できる価値観は存在しにくくなり、セクシャルハラスメントに対する「#MeToo」や、職場でのパンプス・ヒール着用強制に対する「#KuToo」などの運動に対しても、女性の中でも様々な意見が存在する。
カテゴリーで括るだけでは、それぞれの利益・不利益を共通化することができない。そんな現代の社会運動の特徴について、富永氏はこう考える。「
それぞれにみんな違うなかで、異なる苦しみを抱えていて、共通する『根っこ』を探していくような活動」であり、「
それぞれに経験を話すことで、他の人への橋をかけていく。そうすると、違う問題のはずなんだけれど、ちょっとずつ同じ根っこが見えてくる」と。
本書では、社会運動(というほど大げさなものでなくて良いのだけれど)に対して感じる
「鬱陶しい」「意味がない」「そこまでする労力がない」「論破されるのが怖い」などのハードルの超え方を、軽やかに教えてくれる。
本書によると、安価な商品を多く販売する化粧品メーカー「ちふれ」は、高額な化粧品に対する社会運動をきっかけに生まれたそうだ。恥ずかしながら、私はそんな背景があることを知らずに、安価な化粧品を購入することのできる自由を享受していた。
過去の様々な社会運動の結果、時代を超えて享受しているものが、少なからず存在する。そう考えると、すぐには解決できないかもしれない、と思いながらも「もう、満員電車に乗りたくない」「夫婦別姓を可能にしようよ」と声をあげることに、意味はあるのかもしれない。方法は、たくさんある。本書を参考にしながら、考えてみると良いかもしれない。
ある時、私が体調を崩し、一定期間電車通勤が困難になることがあった。在宅勤務ができれば、と会社に申し出たが、在宅勤務制度は存在しておらず、実現しなかった。その時は悲しみに暮れたけれど、あの時申し出た「在宅勤務がしたい」という声がささやかなきっかけとなり、何年後かに取り入れられていたとしたら、喜ばしく思う。あれもひとつの、立派な「社会運動」だったのかもしれない。そう思える、本だった。