会場の安全、職員の疲弊、国民の心など理由付けはいくつもある。ネット上では百人が百様に持論を展開しているのもみる。でも「表現の不自由展・その後」というタイトルが示す意図を考えようとしている者は少ない。どんな理由付けをしても行政が一度は始めた展示に中止を命令したことの意味は重い。そこを出発点に議論するのではなく、脅迫や「人の心」といった抽象的な批判によって表現を規制してもやむを得ないという前例を生み出してしまったのだ。
2012年に東京都の森美術館で開かれた現代美術家の会田誠の個展が「性暴力を肯定している」「女性の尊厳を踏みにじっている」として中止を求める声が殺到する事件があった。この時、森美術館が抗議に屈せずに展示を続行できたのは幸運だったに過ぎない。今や、表現を不自由にする手段はより巧妙になっている。匿名の市民でも一通の脅迫状で催しを中止に追い込むことができるようになってしまった。その前例となってしまったのだ。政治家は有権者や上位の権力者に向けたポジショントークで抽象的な言葉を使って巧妙に批判を加え催しを中止させることを実績として獲得する知恵をつけてさえいる。
菅義偉官房長官や河村市長を筆頭にインフルエンサーたる有名人、タレントが煽り、ネットや街宣車で殺到した抗議は、表現が不自由になっている時代を現している。それらを展示物だと思えば「表現の不自由展・その後」成功しているといえるかもしれない。しかし、ことは政治家が煽った結果、「ガソリンを撒く」というテロ予告が起きたという事実であり、そうしたアイロニーで語れる域を超えている。
いかに自分が気に入らないものであっても、表現を踏みにじったことは明らかである。アートだからではない。いかなる形態であっても表現という行為は命がけのものである。それをないがしろにされたことにやり返す手段はやはり表現である。
『A』『A2』『FAKE』などドキュメンタリーという手段で表現の不自由を突破してきた映画監督・森達也は中止の一報を知り「こういう状況だからこそ、やろう」と述べ自身の過去を振り返った。
「自分は作っちゃいけないとか考えるよりも先に作品を作ってきた。『放送禁止歌』の時も後から<よくあんな作品を作りましたね>という感想を貰ってから、ああ、これはやっちゃだめなのかと知った……」
表現する者はいかなる常識や限界にも囚われないことを血肉として語る森に、今回の中止にどう対抗していけばよいのか問うと、森氏はさも当然のような口ぶりで答えた。
「……ゲリラで、勝手にやってしまえばいい。そう美術館の前で、あの少女像を装飾して展示したりさ」
誰もがいつでも被るかも知れない表現の不自由。その時に、どう行動するのか。今後、我々は表現をする際にそれを念頭に入れざるを得ないことになった。戦後70年以上が経過したいま。「8月の記憶」に新たに重く昏い楔が打ち込まれたのだ。
<取材・文/昼間たかし>