結局、奥さんが発見されたのは自宅からほど近い道路脇側溝の中。
転倒してはまり込んでしまったためか、身動きが取れずにいたが、1週間以上飲まず食わずの状態で奇跡的にも一命を取り留めることに。
ここからが想定外だった。
一命を取り留めたとは言え、脳への後遺症は大きく、過去の断片的な記憶を頼りにうわ言のような独り言を繰り返しているだけで、旦那さんはもとより子どもたちすら認識できない状況に陥っていたのだ。
「生命があっただけ良かったじゃないですか。それより、今回の奇跡的なケースを学会発表したいのですが」
生に執着するよりも、死と向き合うことが大切ではないか
そんな医者の言葉について出たのが先程の台詞だった。
「こんな状態で生き返らせてくれなんて言ってない!」
「人の命を救う」、絶対的正義に満ち溢れるこの言葉の裏側にも、“惜しみ惜しまれながら逝く”という考え方が潜んでいるのだろう。
「生きる」「健康」……もっともらしいテーマではあるが、横行していることはと言えば、脅迫じみた手法で人々の恐怖心を駆り立て、マネタイズを目指すというもの。
そろそろ異論を投げかけてみても良いのではないだろうか。
「病気」「怪我」「死」、これらの事例を近くで見続けていると、それはある日避けがたいスピードとタイミングで眼の前に現れる。「あっ」と思うのは既に衝突した後の話だ。
未然防止と称して何かを買わせたり、飲ませたり、食べさせたり、検査に行かせたりすることだけではなく、もう少し「病気」「怪我」「死」と向き合うことの大切さを伝え育んでいくべきではないだろうか。
最終的には誰もが向き合うしか無い事柄なのだから。
<文/ニポポ(from トンガリキッズ)>