しかし事はこれで済まない。この一件がネットで拡散されると、今までとは比べ物にならないほどの数のヘイトを吐きつけられ始めた。とても学生たちに対応できる数ではなくなってしまった。
「議論」の発端とはまったく違う「ただ在日朝鮮人や朝鮮学校に対して貶しているような発言」が圧倒的だった。その誹謗中傷を受け体調を崩す学生もいた。
「ヘイトコメントを手書きで紙に書き写し、ベニヤ板で作られた壁に貼る事で『インターネット』という、現実とは距離のある世界の隅で起きた出来事を可視化し、同時に、お越し頂いた方々と作者本人が対話する事で、特定の民族に対する『ヘイト』が存在する現状について理解を深めて頂き、問題を解決する為に議論を深めよう、という趣旨で作った」(美術部のFacebookより原文ママ)
インターネットの文字では、言葉が本来持つ重みが損なわれてしまう。だから敢えて肉筆でヘイトコメントを書き出した。インターネット上では感じる事の出来ない言葉の重みと痛みを炙り出したかった。
「今回の展示がネット上で大きな反響を呼ぶ事によって、特定の民族に対するヘイトが世の中に蔓延していて、そのヘイトによって攻撃を受けている人がいる、という事実が可視化され、社会で日の目を見るようになったと思っています。この問題提起によってネット上に限らずあらゆる人がこの問題について考えを深め、お互いに議論する事が、今回の作品の最大の目的であり、一つの到達点であると考えています。また、作品にとって良い意見ばかりでなく、良くない意見も出てくる事が、議論を活性化する上でとても重要な事だと思っています。」(美術部のFacebookより原文ママ)
高校3年生。彼がこの言葉を綴ることを、読者はどうおもうのだろうか。よく出来た子だと、大人びた子だと、そう評価するのだろうか。いや、何偉そうに喋ってんだと、どこかにヘイトに似た怒りを蠢かせるのだろうか。
筆者はメールで質問を送った。「苦しくなかった?」かと。その答えも、美術部のFacebookを通じ間接的に返ってきた。
「ヘイトスピーチが蔓延する社会に生きる事は、やはり多くの苦痛を伴います。その苦しみは私たちだけが感じているものではありません。今回私たちが受けたようなヘイトに苦しんでいる人は少なからず世の中に存在します。苦しんでいる人が少しでも存在するからこそ、アートに価値が生まれるのだと思っています。」(美術部のFacebookより原文ママ)
彼らは戦わなくてもいい戦いを戦っている。
美術展のタイトルになっている「アンデパンダン・デパンダン」とはどういう意味なのか。
アンデパンダンとは、フランス語で「自由な、独立した」という意味で、フランスで保守派や伝統派に反対して始まった、アーティストであれば無審査で誰でも自由に出品ができる展示会の事でもある。
デパンダンとは、その逆だ。何かに「縛られて」いるという意味。一方で自由を主張すれば、「縛られた」展示会を望む人たちを仲間外れにしてしまうという想いから、「アンデパンダン」と「デパンダン」の二つの言葉を繋げた。だから美術展に展示された作品は、「アンデパンダン」か「デパンダン」のどちらかに区分されている。
今回の美術展は、企画からすべて学生たちが、自分たちで議論し作り上げた。
今回の一件も、「どうせ先生に書かされたんだろう」という誹謗中傷を嫌い、だから学生自身の言葉で、美術部のFacebookページにアップされた。
学生の作品、「Cafe:Freedom of expression」の箱の下には車輪が取り付けられている。可動式の作品だ。話し合いましょう。議論をしましょう。会って話せば分かり合える。学生は、自身の作品を通じてそう叫んでいる。そう、この作品はそんな議論するための「Cafe」であると。
学生が作り上げたヘイトの箱。パンドラの箱よろしく、議論が尽くされれば、そこに希望が残るのか。
ちなみに、学生の作品は「デパンダン」でのエントリーだ。
彼らはいつまで縛られなくてはいけないのか。