嘲笑される側に責任はあるのか――朝日新聞は筋を通した報道を
「問う 2019参院選」との連載記事の第1回を、7月7日(日)朝刊の1面で報じている。
「『嘲笑する政治』続けるのか」という見出しには、「そうだ、よく踏み込んでくれた」との思いを抱いた。しかし、下記の一言が、記事全体の論調を大きく棄損している。
――「笑われる野党にも責任がある」
これは政治部長・松田京平の署名記事だ。
・7月7日紙面記事:「(問う 2019参院選:1)「嘲笑する政治」続けるのか 政治部次長・松田京平」
・7月6日電子版有料会員限定記事:「嘲笑する政治が生んだ差別、同調圧力 安倍政権の6年半」
文脈はこうだ。
最初に「笑いは人間関係の潤滑油だ。ただし、他人を見下す笑いとなれば話は違う」と、問題意識が提示される。
第二段落では、安倍首相は民主党政権を「悪夢」とする発言を自民党の会合で繰り返していることが語られ、「笑いや拍手は確かに起きた。それは、さげすみの笑いだった」と記されている。
第三段落では、安倍首相が今年6月の記者会見で、「再びあの混迷の時代へと逆戻りするのか」を参院選の「最大の争点」としたことが紹介されている。
その上で第四段落では、みずからの問題意識がこう語られている。
”民主党政権の失敗と比較して野党を揶揄(やゆ)、こき下ろす。身内で固まってあざ笑う――。自分が相手より上位にあり、見下し、排除する意識がにじむ。首相も支える官邸スタッフも代わらず、国会では野党を圧倒する議席に支えられた強固な権力基盤の中で、「嘲笑する政治」が6年半、まかり通ってきたのではないか。”
この問題意識には、私は全く異論はない。適切なタイミングで、よく踏み込んで書いてくれたと思う。それだけに、「笑われる野党にも責任がある」との表現がそれに続くのは、残念でならない。
”笑われる野党にも責任がある。ただでさえ小口化したのに、いまだに主導権争いと離合集散を繰り返している。民主党政権の中枢にいた一部政治家に至っては、無節操に自民党の門をたたいている。
有権者の選択は、相対的な評価によるものだ。本気で闘う気のない政党や政治家は、受け皿になりようがない。世論調査で内閣を支持する理由の最多が「他よりよさそう」で固定化する理由が、ここにある。”
ここでの「笑われる」とは、文脈からして、「嘲笑される」の意味だ。「嘲笑される側にも責任がある」――そう語ることの不適切さは、改めて指摘するまでもないだろう。「いじめられる側にも責任がある」と語っていることと同じだからだ。
なぜ、そんな表現がここで使われたのか。
一つの有力な推測は、「嘲笑する政治」への批判記事の中で、「バランス」を取ろうとした、というものだ。もしくは、政権側への一定の配慮がないと、朝日新聞への政権側の圧力がさらに強まる、という懸念からの忖度だろうか。
しかし、署名つきのオピニオン記事なのだ。朝日新聞として、批判すべきは堂々と批判すべきだ。この記事は、「このまま『嘲笑の政治』が続くなら、民主主義は機能しない」と結ばれている。その論調を貫くべきだ。
野党に対して、言いたいことがあるなら、それは別の回で言えばよい(注)。「嘲笑する政治」への批判の中で、嘲笑される側にも責任があるかのような書き方は、きわめて不適切だ。それは野党を不当に貶めるものだ。
確かに政治報道への政権の圧力は強いのだろう。それは、朝日新聞の政治部記者の経験がある南彰氏(現在は、新聞労連の中央執行委員長)による『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』(朝日新書)からも、うかがわれる。
しかし、だからといって、「バランス」を取るためにと、野党を不当に貶めてはいけない。政治を扱ったテレビ番組の中でも、「野党もだらしない」などと、「バランス」を取るかのコメントが挟まれることもあるが、予算委員会を開かない、受け取るべき報告書を受け取らず、出すべき報告書の公表を引き延ばす、呼ぶべき参考人を呼ばない、合意なく職権により委員会を強引に開催し採決する、そんな風に政治のあり方をゆがめているのは政府・与党だ。「だらしない」のは、野党ではなく、むしろ政府・与党だ。
参院選に向けた特集報道が始まった。朝日新聞は、嘲笑される側の責任とは
「バランス」を取る?
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