ここで少し立ち止まって考えて欲しい。Googleを代表とする米国企業が考えるグローバルとは何かということだ。それが手放しで正しいものと見なすのは牧歌的すぎる。それは、ヨーロッパから出てアメリカで育った、世界の中での1つの価値観に過ぎない可能性がある。
日本で普通に出版されて読めるマンガが、米国企業の基準で性的なコンテンツとして規制を受ける。グローバル基準とは何かと疑問を持つ。
ならば、そのマンガを国内流通すればよいかといえば、それがデジタルであるならば、実質上、米国企業の配信プラットフォームを経由しなければ国内で配信できない。
米国の価値観と、日本の価値観は違う。これは日本だけではない。世界には、多様な文化を背景にした社会が存在している。それらの文化が、米国がITを支配することで、その国の価値観で善悪が判断されてしまう。それは正しいことなのだろうか。
グローバルでデジタルな時代になって、地球レベルでの独占や寡占が容易になった。たとえばスマートフォンの世界では、GoogleとAppleでほぼ100%のシェアを誇る。この米国の2つの企業を無視して、世界に、そして国内にコンテンツを流通させるのは難しい。
アプリのマーケットに頼らず、Web配信するという道もあるが、収益化の面では効率が悪い。そして上手くマネタイズ出来なかった事業は、早晩その活動が停止してしまう。コンテンツを作るのは無料ではない。対価を得る手段を掌握されれば、その方法を持つ支配者に従わざるを得ない。ことは金銭の問題なのだが、そのことが文化的な支配に繋がる。
グローバル社会でのローカルな文化に対して、それぞれの人間が持つスタンスは2つあるだろう。特定の文化圏が主導するグローバルスタンダードに、全ての人間が従うべきだ。あるいは文化の多様性を重視して、それぞれの地域での独自性を認めるべきだ。
ことが、被害者が存在する人権問題なら、最も人権が尊重される判断基準に従う方が望ましいだろう。しかし、そうでないならば、文化的な背景の違う地域を、一地域の基準で判断することには疑問が残る。
私は常々グローバルという言葉に疑問を持っている。それは、全世界的なコンセンサスなのか、それとも、ある地域が肥大化して他の地域を飲み込んでいるだけなのか。
現代は、グローバルでデジタルな時代だ。そうした時代において、文化的な多様性を維持するには、何をすればよいのかと考えることが多くなった。
◆シリーズ連載:ゲーム開発者が見たギークニュース
<文/柳井政和>
やない まさかず。クロノス・クラウン合同会社の代表社員。ゲームやアプリの開発、プログラミング系技術書や記事、マンガの執筆をおこなう。2001年オンラインソフト大賞に入賞した『めもりーくりーなー』は、累計500万ダウンロード以上。2016年、第23回松本清張賞応募作『バックドア』が最終候補となり、改題した『
裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬』にて文藝春秋から小説家デビュー。近著は新潮社『
レトロゲームファクトリー』。