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3月13日に「ピエール瀧容疑者を逮捕」というニュースが流れてきて驚いた。最近の邦画では、なくてはならない俳優だったし、『アナと雪の女王』のオラフ役の活躍も印象的だった。そのため逮捕のニュースを見た瞬間に思ったことは「邦画のかなりの作品が引っかかるんじゃないか?」だった。
そもそも俳優が逮捕されたからといって、作品を封印しなければならないのかという問題がある。その是非は今回、脇においておく。今回は、デジタル時代の消えるコンテンツについて書きたいと思う。
件の逮捕報道のあと、ネットを見ていて目撃したのは「自主回収や配信停止で入手できなくなる」「物理メディアを持っているから安心」といった意見だった。
ある日を境に、それまでアクセスできていたコンテンツが一斉に世の中から消えてしまう。それを避けるには、社会の動きから切り離した自分だけの方法でコンテンツを持っていなければならない。その方法として物理メディアは最適である。
デジタル時代に逆行した、極めてアナログ的な所有の方法に思える。物理媒体の方が有事に強い。こうした意見が出るのには、現在の電子コンテンツの「所有」についての問題がある。
遥か過去の時代、音楽や演劇は、その場限りで見るものだった。物語も、語り部から聞くものだった。そうしたコンテンツを本や絵画という形で所有できるのは、一部の王侯貴族に限られていた。コンテンツは一過性のもので、所有するものではなかった。
その後、印刷技術の進歩や産業革命によって、コンテンツの大量複製の時代がやって来た。物を効率的に複製する技術が進み、多くのものが量産された。本は大量に印刷されて、ベストセラーという概念が誕生した。音楽はレコードに封じ込められ、演奏者がいなくても聴けるようになった。演劇もフィルムに焼き付けることで、俳優なしで見ることができるようになった。そして、人々がコンテンツを所有する時代へと移行していった。
次に大きな波が来たのは、デジタル化である。非常に安価に、劣化なしで複製できる方法が誕生した。所有はさらに簡単になるように思えた。しかし現実は違う方向へと向かい始めた。
たとえば、Amazonをはじめとする多くの電子書店では、電子書籍を購入した場合は使用権が付与されるだけで、自分のものになるわけではない。何らかの理由で配信元が倒産したり事業撤退を決めれば、その本を読むことはできなくなる。
また、所有の概念はさらに変化しつつある。「サブスクリプションサービス」の流行だ。最近多く見られる音楽や映像の月額定額制サービスでは、特定のコンテンツの配信が終われば、そのコンテンツはサービス内で視聴できない。一時的な閲覧が許可されているに過ぎない。
コンテンツが爆発的に増えて、ユーザーが1つのコンテンツにかける時間が大幅に減った。その結果、所有に対する行動が大きく変わった。1つ1つのコンテンツを買わないスタイルが徐々に普及してきている。所有せずに、いつでも必要な時にアクセスできる権利のみを購入する方法に移行しつつある。
こうした「所有しない」ことが前提の時代において、自分がアクセスしたいコンテンツが封印コンテンツになってしまうと入手方法がなくなる。配信元から一元的に管理されているがゆえに、その上流が配信停止を決定すると、一般の人が正規の方法でコンテンツに触れることができなくなる。
本やレコード、CDやDVDといった物理メディアが大量生産されていた時代は、それらのメディアが分散バックアップの保存媒体として機能していた。そのため、権利元が倒産したり販売を停止しても、複製されたコンテンツにアクセスすればよかった。
電子化時代になり、コンテンツへのアクセス手段は、脆弱になったとも言える。