戊辰戦争150年、新政府軍に最後まで抵抗した会津藩のその後の“苦しみ”とは!?

旧会津藩の教育レベルの高さ

柴五郎の住居跡

柴五郎の住居跡は現在、むつ運動公園テニスコートの脇にある

 なかでも、その悲惨ぶりはのちに陸軍大将にまで進んだ会津人・柴五郎の日記に明らかにされている(石光真人『ある明治人の記録』中公新書)。  若き柴五郎も貧しい食事とあまりの寒さで熱病にかかり40日も寝込んだ末に、ついには栄養失調で髪の毛が抜けて半病人になった。猟師が撃ち殺した近所の飼い犬を毎日の食事にしたこともあったという。この塩で味付けした犬の肉は五郎も喉につかえて吐き気を催すほどだった。父は語気荒くこうしかりつけた。 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐ(そそぐ)までは戦場なるぞ」(『ある明治人の記録』)  旧会津藩の藩士と家族は、田名部(現・むつ市)の斗南ケ丘と松ケ丘に新市街地の建設を開始し、1871(明治4)年7月の廃藩置県によって斗南県となり、11月には弘前県・八戸県などとの合県で青森県が誕生し、斗南は実質的に解体した。  藩士と家族たちは、下北半島にとどまる者、開拓のため北海道に渡る者、会津に戻る者、旧士族の反乱に加担する者などバラバラになったが、旧藩校「日新館」での教育レベルの高さから、柴五郎のように活躍する者も多かった。  しかし「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐ(そそぐ)までは戦場なるぞ」という会津の精神は、150年経っても風化することはないようだ。 <文/松井克明(八戸学院大学講師、地方財政論)>
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