肱川水害はダム最優先の治水行政による行政資源の配分の失敗の産物
前回は、私が声を失うほどの衝撃を受けた、あまりに杜撰な――堤防・水門・排水施設の整備を怠り、治水のためのダム建設でなく、ダム建設のための治水と断じてよいほどの本末転倒な――ダム偏重治水行政についてお伝えしました。
今回は衝撃を受けた大洲市菅田地区を後にして、大洲市の中心部である東大洲を含む大洲地区の様子をお伝えします。
大洲市菅田地区を後にすると、間もなく大洲市大洲地区に入ります。大洲市は、鹿野川ダムの下流25kmにあたる肱川中流の氾濫原に開けた城下町で、氾濫原であるがゆえに水害には常習的に見舞われ、その結果として肥沃な農地が広がる豊かな土地です。
大洲は大きく城下町の旧市街である西大洲と、元々農地であった新市街の東大洲に別れます。今回の水害では、東大洲はその過半が1~4m水没し被害は商工業地域に集中しています。西大洲も東大洲程ではないにしても全域が大なり小なりの浸水をしています。
東大洲はこれまでも1m未満の床下~床上浸水に度々見舞われていましたが、今回の水害では、人の背丈ほどの浸水に見舞われた地区が多く、住居だけでなく産業施設に甚大な打撃を残しています。その模様は、大洲市が撮影した固定カメラとドローンによる7/7の映像で見ることができます。
東大洲地区は、昭和末から平成にかけて農地から商工業地域と居住地域に急速に転換した地域で、2009年10月に撤退した松下寿(現PHCホールディングス)の工場を代表に大洲市の発展の中心と言える場所です。
一方で、もともと農地であるためと、肱川と矢落川の合流点で生じる背水(バックウォーター)現象によって、度々1m程度の浸水の水害に見舞われてきました。旧松下寿の工場敷地は、要塞のように四方を防水擁壁で覆われており、水害時に浸水しないようにされていましたが、松下寿撤退後、敷地分譲のために防水擁壁は国道に面した側が取り壊されていました。
聞き取りをしたところ、東大洲では膝程度の高さの浸水にはなんとか対応できるように備えをしていたようです。しかし、今回の水害では浸水しにくい国道沿いでも2m前後の浸水となり、手の打ち様がなかったとのことでした。
東大洲では、9月末にパチンコ屋が次々に再開し、9~10月にかけて飲食店も再開していますが、よく見回してみますと厨房施設が水没した飲食店や書店、文具店を中心に櫛の歯が抜けたように店舗が閉まっています。
驚いたのはマクドナルドといった被災後の復旧が早いはずの全国チェーン系の飲食店の復旧の遅れや撤退が目立つことで、松下寿の撤退によって打撃を受けた大洲の経済を今回の水害はかなりの程度圧迫しているものと思われます。
撤退した飲食店についてテナント関係者にきくと、3回目の浸水かつ、過去と異なり厨房施設が全没する被害であったためにとても耐えられないということで撤退されたとのことでした。
2018年7月7日、未曾有の豪雨によって大きな被害が生じた愛媛県の肱川(ひじかわ)水系における現在の被害状況をお伝えしてきました。
常習的な水害多発地帯だった大洲市
2mの浸水被害で経済的打撃も甚大な東大洲地区
この連載の前回記事
2018.11.16
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