日本に亡命していたフジモリはなぜペルーに戻ったのか?
ビスカッラ大統領の決定を待つ間、フジモリは今も病院に入院中であるが、ここでフジモリの辿った道を振り返って見ると、2011年11月に日本に亡命したフジモリがなぜ5年間の滞日を終えてペルーに戻る決心をしたのかという疑問が湧く。
それには二つの要因があったようである。ひとつは日本政府が暗黙の内に、彼に出国を示唆したからであるという。日本政府は当初フジモリは日本国籍を有する人物でペルーからの彼の身柄引き渡しの要請を拒否する姿勢を示していた。ところが、ペルー政府がこの問題を国際刑事裁判所(ICC)に訴えるという構えを見せるようになってから日本政府のそれまでのフジモリを断固守るという姿勢に揺らぎが生じるのであった。
その理由は、これが広く国際問題に発展すると、当時国連の常任理事国のポストを狙っていた日本が不利になると考えたからであるというのを日本のある大使が明らかにしたことがペルーの電子紙『
UTERO.PE』(2008年3月14日付)で指摘されている。
もうひとつはフジモリ政権時(1990-2000)の汚職や人権の侵害などを調査していたホセ・ウガスとインタビューした内容がチリ紙『
La Tercera』(2016年5月31日付)に掲載されいるが、その中で同氏は「誰かがフジモリに、ペルーに帰国すれば大統領として勝利者だったとされている人物が戻って来たということで、大衆の間で新たな動きが生まれると言って彼を説得したのだ」と指摘したのであった。即ち、彼に大統領として再び立候補することを誘ったのである。
日本では選挙に立候補したが経済支援もなく、充分な準備期間もなく僅か5万1279票しか得ることが出来ず当選しなかった。それにフジモリは内心失望したようでもあった。(参照:「
El Comercio」)
そこで彼は再びペルーに戻る決心をした。東京でペルーのパスポートも入手した。
ペルーに帰国する前に、先ずチリに留まってそこから彼に科せられている罪状の数を減らすことに努めることを決めて2005年11月に東京を去った。
チリに滞在しながら、弁護士の働きで罪状の削減に取り組み、送還されたときには、それまでに彼に科せられた40の罪状はその3分の1まで削減され、その対象となって裁定を受ける事件は13件から7件に削減されていた。(参照:「
El Comercio」)
2000年11月に日本に亡命してから2017年9月にペルーに送還されるまで10年の歳月が過ぎたのであった。そして今、恩赦が取り消されて再び収監が迫っている入院中の彼に、自宅軟禁の法案が彼を慕う政党議員によって立案され、議会でスピード可決された。今、それが法制化されるためにビスカッラ大統領の署名を待っているのである。
<文/白石和幸>
しらいしかずゆき●スペイン在住の貿易コンサルタント。1973年にスペイン・バレンシアに留学以来、長くスペインで会社経営する生活。バレンシアには領事館がないため、緊急時などはバルセロナの日本総領事館の代理業務もこなす。