写真/時事通信社
ご覧のように本欄『
なんでこんなにアホなのか?』は論説や論文の類ではなく、その週に話題となった事柄をピックアップし、私が「好き勝手」なことをコメントする、フリースタイルなコラムのコーナーだ。読者からも時折、「菅野さんのSPA!のコラム、毎週楽しみにしてます。あんなに自由にいろんなことを書くコラムは最近珍しいから」とお声を頂戴することがある。
だが100%「好き勝手」に書けるのは今こうして原稿を書いているこの瞬間まで。この後私はこの原稿を、自分なりに読み直し、推敲し、若干の手直しを加えて扶桑社のSPA!編集部に納入する。
編集のほうでは、原稿の内容を文法的に検討するだけでなく、事実関係に誤りがないかなどのチェックを施し、ゲラを作成し、筆者である私に差し戻し、それを私が再検討し、修正すべきは修正し、また編集部に差し戻し、ようやく印刷に回される。
自由気ままに書いている本欄のような週刊誌のコラムでさえ、こうしたさまざまなチェック機能を経て、初めて読者の皆様のお手元に届く。お金を頂戴して「製品」を作る以上、筆者も版元も共同で責任を負えるよう最後の最後まで確認作業を重ねるのは当然といえよう。
「限りなく廃刊に近い休刊」という、まるで村上龍の小説のような事態となった『新潮45』の騒動を見ていて気になったのは、杉田水脈や小川榮太郎のような連中が書いた原稿の稚拙さや馬鹿らしさよりも、「この製品を世に届ける事業者としての責任」の欠如だ。
小川榮太郎や杉田水脈に責任感や矜持を求めるのは酷というもの。両名にはそうしたものを感じる能力がハナからないのだから。だが版元は別。近所のおっさんの愚痴レベルの原稿を印刷し販売するとは、最終消費者からお金を頂戴する商売の当事者としての責任があまりにも欠如していたと言わざるをえないだろう。
聞くところによると、『新潮45』は発行部数が2万部を下回っていたという。とても「商売」と呼べるレベルに達してはいなかったであろうことは想像に難くない。しかし、それでも、版元の責任から逃れられるわけではあるまい。だからこそ新潮社は「休刊のお知らせ」を「今後は社内の編集体制をいま一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です」との一文で締めくくったのだろう。事ここに至って新潮社は、商売人としての責任の欠如を自覚したのだろうと評価したい。
さて問題は、新潮社以外の版元各社だ。小川榮太郎や杉田水脈ごときの原稿が、ノーチェックで出版される「隙」がないのか? 腐ったネトウヨの言説が印刷される余地はないのか? 『新潮45』を他山の石として、いま一度自分たちの「編集体制」を見直す必要がある版元各社は、多数、存在するはずだ。
だよね? 扶桑社さん。
【菅野完】
1974年、奈良県生まれ。サラリーマンのかたわら、執筆活動を開始。2015年に退職し、「ハーバービジネスオンライン」にて日本会議の淵源を探る「
草の根保守の蠢動」を連載。同連載をまとめた『
日本会議の研究』(扶桑社新書)が第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞を受賞。最近、どこよりも早く森友問題の情報を提供するメルマガが話題(
https://sugano.shop/)
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