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昨今、世の中では、教育の現場でもビジネスの世界でも、
「考える力」を身につけなければならないと言われている。変化が激しい現代、これまで出会ったことのない事態に対処するには、臨機応変に考え、判断できなければいけないらしい。他方で、最近の若い人は考える力が弱いという声も、相変わらずよく聞こえてくる。
けれども、意外に思うかもしれないが、実は私たちはみんな、
考える方法をまったくと言っていいほど学んでいない。これは最近の話ではなく、ずっと以前からそうだった。したがって、考える力が弱いのは、イマドキの若者だけではなく、イマドキの中年も老人も、考える力の点では、みんな大差ない。
これはとても奇妙なことだ。もし、計算の仕方を教わっていないのに、計算しろと言われ、できなければ計算力がないと言われたら、誰もがその理不尽さに憤慨し、滑稽さに大笑いするだろう。だが、思考力については、なぜかこんな妙ちくりんなことがまかり通っている。いったい何なのか。
実を言うと、私自身、このような深刻な事態に最近まで気づいていなかった。きっかけになったのは、子どもたちに哲学を教えはじめたことである。
具体的には、2012年夏、高校生を集めて哲学サマーキャンプを始めてからだ。高校生相手に、難解な専門的定義をしても仕方ない。もっとシンプルで、本質を突いた説明を……ということで、思いついたのが「
哲学とは、問い、考え、語ることである」というものだ。
ここで重要なのは、「
問うこと」である。私たちは「問い」があってはじめて考えることができる。ただぼんやり考えを巡らせるとか、悩むのではなく、もっと能動的に考えるには、問うことに意識的でなければならない。
思考の質は、問いの質によって決まる。考えが漠然としているのは、問いが漠然としているからだ。具体的に考えるには、具体的に問わねばならない。私たちは問うことで考え、考えを言葉にすることで、それを明確にすることができる。それを積み重ねることで、思考を展開できるのだ。
察しのいい人はこのあたりで、これは「考える」ことと何が違うのか、と疑問に思うだろう。そう、哲学とは「考えること」そのものに関わり、突き詰める学問だと言ってもいい。だが、この一見陳腐であたりさわりがないように見える哲学の定義から、意外なことに気づいた。
そもそも私たちは、いつ、どこで「問う」機会をもつのだろうか。どのように問うのか、「問う方法」について、私たちはいったいどこでどうやって学ぶのだろうか。
少なくとも、学校では教わらない。会社でも教わらない。だとしたら、いったいどこで? ……探してはみるものの、思い当たらない。どうやら私たちは、どのようにして考えるのか、まったく学んでいないらしい。これは、恐ろしいことではないか。
だが、それだけではない。