沖縄の選挙になるとわく左右両陣営の「オリエンタリズム」について

菅野完

沖縄の外にいる人間が沖縄を語るとき、できることは何なのか

 沖縄について語ることはとても難しい。

写真/時事通信社

写真/時事通信社

 もちろんこれは、「私には」という意味で、である。私には軽々しく、沖縄について言及することがどうしてもできない。

 当事者性を有して語るほうがよいものを、当事者性を有さない者が語るのはなんであれ難しい。しかも沖縄についていえば、沖縄に縁もゆかりもない私は、陣営(あえてこの言葉を使えばだが)としては加害者側に属する。加害者側の人間が、当事者性を有せずに何かを語ることは、どうしても思い上がったオリエンタリズム――極端に美化したり、あるいは蔑んでみたり――に陥ってしまう。それは単なる勘違いと増上慢であり、避けねばならないだろう。

 翁長雄志沖縄県知事の訃報に接したとき、彼がかつて発した「沖縄県民はまだ魂の飢餓感を感じている」という言葉を思い出し、改めて沖縄を語ることの難しさを痛感した。

 彼の死の直後から、さまざまな人々が多数のコメントを出した。曰く「沖縄のために尽くした人」「保守政治家であったにもかかわらず、自民党政権と対峙した硬骨の人」、あるいは「政府の意向に従わず行政の混乱を招いた知事」「かつての仲間に後ろ足で砂をかけた政治家」などなど、評価はさまざまだ。しかし、私にはそれら多種多様な評価のすべてが、翁長氏の言う「魂の飢餓感」を生む原因そのものではないかと思えてならなかった。

 死んだ政治家についていろいろな評価が出るのは当然だろう。ましてや現職知事の死である。死去は自動的に次の選挙の引き金になる。死そのものが政治的にならざるを得ない。とはいえ、死人に口なしとばかりに毀誉褒貶さまざまな論評が各方面から無責任に提出される様は、沖縄の民意が「沖縄の外」の都合と打算で無視され続けてきた様子に重なるように思えてならないのだ。

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沖縄県知事線と自民党総裁選が大きく重なる9月の政治

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