写真/時事通信社
「人権」という単純明快な原理がここまで理解されないという恐怖
19人もの尊い命が奪われた、津久井やまゆり園の事件から、2年がたった。報道されるところによると、あの犯人はいまだ反省の弁を口にしていないという。それどころか、自己の行為がいかに正義に基づくものか、社会に貢献するものかを主張してやまないのだという。
思い起こせばあの犯人は犯行に先立ち、大島理森(ただもり)衆議院議長や安倍晋三総理大臣に宛てた手紙で、「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」「全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです」「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい」などと訴えていた。「不幸を作ることしかできない」障害者は生きるに値しなく、「不幸を作ることしかできない」以上、抹殺することが世のため人のためであり、安倍総理や大島議長など国家の要路にある人が彼を支援することは当然だと、彼は言いたかったのだろう。
事件から2年たった今、あの事件の犯人を突き動かした「その人の生み出す価値で、人の命の軽重を判断する」という思考パターンが、この社会でまだ完全に否定されきっていないことを痛感させられる事件がまた発生した。
自民党の杉田水脈(みお)衆議院議員による「LGBTには生産性がない」との雑誌の寄稿文の内容もまた、津久井やまゆり園事件の犯人のあの思考パターンと全く同じである。
あの犯人は「その人の価値」を判断し殺すことを正当化し、杉田議員は「その人の価値」で公金投入の是非を問うている。こう並べてみれば、両者が驚くほど似ていることに気づくだろう。
しかし果たして、この思考パターンは「社会の異端」「特殊事例」として切断処理できるものなのだろうか。あの犯人や杉田議員だけが特殊だと断言できるのだろうか。
あの犯人は衆院議長と内閣総理大臣に、「きっと理解してくれるはず」との前提にたって手紙を書いた。杉田議員も自分の発言が、自民党の「大臣クラス」の先輩議員にフォローされたことを語っている。両者ともに明確に「自分は数多くの人の意見を代弁している」という自負を持っているのだ。
私は、両者のこの「自負」が勘違いだとは言い切れないでいる。
我々の住む社会には、弱い人、「正常」ならざる人が排除されることはむしろ「社会の健全化」のために歓迎されるべきことだとの認識を持つ人が、大量に存在するのではないか?
だとすると、杉田議員は紛れもない「国民の代表」である。
だから私は杉田議員ではなく、この社会を恐れ絶望している。「人権」という単純明快な原理がここまで理解されない、この社会の姿に、恐れおののくしか、今の私には、術がない。
【菅野完】
1974年、奈良県生まれ。サラリーマンのかたわら、執筆活動を開始。2015年に退職し、「ハーバービジネスオンライン」にて日本会議の淵源を探る「
草の根保守の蠢動」を連載。同連載をまとめた『
日本会議の研究』(扶桑社新書)が第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞を受賞。最近、どこよりも早く森友問題の情報を提供するメルマガが話題(
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