「バターン死の行進」から76年。アメリカでも危惧される「歴史の風化」

林泰人
「バターン死の行進」から76年……。ピンとこないかもしれないが、舞台となったフィリピン、そして多くの犠牲者が出たアメリカでは各地に慰霊碑が立てられるなど、第二次世界大戦の重大事件として捉えられている。

「最悪の残虐行為」と厳しく糾弾

 1942年、第二次世界大戦中のフィリピンで起きた「バターン死の行進」は、日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が収容所への移動中に多数死亡した事件。水や食糧が足りないなか、熱帯熱で倒れる者や、日本軍兵士に虐殺された捕虜もいたとされ、フィリピン防衛を担っていた第14軍の司令官や、移送の責任者は戦後、マニラ軍事裁判や極東軍事裁判で死刑に処されている。

 日本のネット上では「よりよい環境に移送するため仕方なかった」「日本軍は投降すること恥としていたので、捕虜の扱いに関する教育が足りていなかった」という意見や、「これぐらいの距離は飲まず食わずでも歩ける」というものまで、事件を疑問視するようなコメントが多く見られる。一方で、義務教育などで詳しく教えられることもなく、知らないという人も多いだろう。

 ちなみに‘10年には、当時の外相だった岡田克也が「バターン死の行進」の生き残りである元米兵と面会し、公式に謝罪した。外相が米国人元捕虜に謝罪したのはこれが初めてである。

「BUSINESS INSIDER」

「BUSINESS INSIDER」は「最悪の残虐行為のひとつ」という見出しで紹介している

米メディアはどう報じてるか?

 では、多数の犠牲者が出たアメリカではどういった扱いなのか? 「BUSINESS INSIDER」は「第二次世界大戦でも最悪の残虐行為のひとつ バターン死の行進から76年」という見出しで事件を紹介している。

「収容所まで60マイル(約96km)以上を歩かされた捕虜の多くが、戦傷や病気を悪化させる熱帯熱に苦しんだ。抵抗した者や、隊列を乱した捕虜、遅れをとった者は銃剣で刺されたり、射殺、斬首されることもあった。行進を監視する日本兵は容赦なく捕虜を殴打した」

 と、行進の残虐性を詳細に伝えている。

 しかし、76年という年月が経った今、アメリカでも「事件を認識している」人の数が次第に減りつつあるのが問題になっている。

Santa Fe New Mexican」は「ニューメキシコの生還者、『バターン死の行進』が忘れられてしまうことを懸念」という記事を掲載。バターンでの戦闘は日本軍のオーストラリア侵攻を食い止めたが、第二次世界大戦初期のもっとも悪名高く残虐な出来事「死の行進」に繋がってしまったと事件の重大性を伝えつつも、現在生き残っている元捕虜がいなくなれば、忘れ去られてしまうのではないかという懸念を示している。

 同記事では98歳になる元捕虜の妻が、3月に行われた式典にやってきた孫たちのエピソードを挙げて、「(死の行進が)忘れられることになるだろう」と指摘している。というのも、孫たちが周囲に式典と死の行進の話をすると「教師も同級生も何の話をしているのか、事件についてサッパリ知らなかった」そうだ。

アメリカの歴史教育は不十分?

「死の行進」が風化してしまう事態を防ごうという動きもある。「BALITANG AMERICA」によれば、カリフォルニア州教育委員会は第二次世界大戦中フィリピンで起きたことを小学6年生向けのカリキュラムに入れるよう定めたそう。これを「バターン歴史遺産協会」の活動の成果であると紹介している。しかし、同協会のメンバーはカリフォルニア州だけでは足りないとし、「アメリカ史でも重要な事件なので、こういった例が全国で増えることを望んでいる」とコメントしている。また、米国内では事件を忘れないよう、各地で退役軍人へのチャリティを兼ねた記念マラソン・ウォーキングなども行われているそうだ。

 それでも事件について知っている人々は年々減っている様子。その背景について、在日アメリカ人男性は次のように指摘する。

「アメリカの歴史の授業は酷くて、特に第二次世界大戦はあまり細かく勉強しない。ものすごく大きな出来事以外、太平洋戦争についてはほとんど触れられないんです」

 歴史教育については日本でもさまざまな問題が取り沙汰されているが、過去から学ぶことはどこの国においても重要。当事国ならばなおさらである。76年経った今、「死の行進」について報じるメディアはほとんどないが、あらためて同事件を思い返すことで見えてくることがあるかもしれない。

<取材・文・訳/林泰人>

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