今でこそ大規模なイベントを開催しているが、運営のノウハウを持ち合わせていたわけではない。その名のとおり、MC正社員はもともとサラリーマンをしながらラップをしていた。新潟県の短大を卒業し、埼玉県の印刷会社で8年ほど働いた後に脱サラ。自他ともに認めるダメ社員だったそうだが、社会人の経験から「時間通りに来る」「期日までにイベントの内容を決める」「そして圧倒的なMCBATTLEへの愛」などの能力は持っていた。
「これは当時の俺の周りだけだったかもしれないけど、そういう当たり前の能力を持った人がヒップホップ業界にはいなかったし、今も裏方が少ないんですよ(笑)。もともと僕もMCバトルに出場する側だったんですが、周りがそんな状況だったので、『じゃあオレが全部やるよ!』と言って運営に関わるようになったんです」
決して初めから、「MCバトルのシーンを大きくする!」といった壮大な夢があったわけではない。しかし、周囲からの反応は予想以上に大きく、それまで付き合っていたラッパーからも一目置かれるようになった。本人は「MCバトルの運営を始めるまで、人に褒められたことは一度もなかったと思います」と語る。
「サラリーマンとしての仕事も含め、それまで『お前マジでスゲーよ!』なんて言われたこともなかったし、尊敬されたこともなかった。ヒップホップ業界の人って一見怖そうだけど、みんなスゴくピュアないいやつなんですよ。ただ、才能あふれるアーティストは適当な人も多いんです。だからオレくらいの管理能力でも「お前スゴいな!」ってなる(笑)。あと、当時は主催者不足だった気がしますね……。やっぱり基本は演者側だし、告知したり、タイムテーブルを作るような事務作業が苦手な人は多いですよね」
何か特別な仕掛けをしたわけではなく、出演者への連絡や、イベント中の時間管理など、本人としては社会人として最低限の段取りをしただけ……。しかし、そうした人物が欠けている現場では、それでも十分必要な存在になりうるのだ。
「出演する側も、まず時間通りに来ないことも多いですよね(笑)。変わった人が多いし、最近はMCバトルで有名になって、レーベルや事務所に所属するラッパーも増えましたけど、管理する側は大変みたいですよ。でも、会場内は出演者ばかりで、客がゼロなんてところでしかバトルできなかった自分たちが、普通にテレビに出れるようになったりして……。好きなことを続けてきてよかったと思います」
やる気のないダメリーマン……。そんな自分のなかにも、それまで気づかなかった“才能”や需要があることを知ったMC正社員。こうして、少しずつヒップホップの世界で自分の足場を積み上げ始めることとなった。
<構成/古澤誠一郎>
【MC正社員】戦極MCBATTLE主催。自らもラッパーとしてバトルに参戦していたが、運営を中心に活動するようになり、現在のフリースタイルブームの土台を築く