北野武の主演した映画『教祖誕生』はその様子を面白おかしく書いているが、祀り上げられる人がいて祀る人がいれば宗教の成り立ちとしては十分なのだ。大本教の開祖、出口なおも同じだ。
出口なおに「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑り、人々にご神託を与えた。集まった人々が宗教団体を形成する。時代は人々が貧困にあえいだ明治から大正時代のことだ。現代に照らしても、一般の人々が不況にあえぎ、貧困を訴える時代背景はその頃と似通っているといってもいい。
どのヒーラーも共通する口ぐせは「私ははじめお金を取らなかった」という逸話だ。だが今はセミナーでお金を集めているのだから、それを印籠のようにかざすのは筋違い。最初は誰も話を聞いてくれないのだから無料にするのは集客のセオリーとして当然だ。
スピリチュアルの指導者はセミナー代やスピリチュアルセッション料の名目でお金を集める。すでにスピリチュアルと新興宗教の境目は、宗教を名乗っているかいないかだけの差でしかない。
むしろ宗教になると信者が嫌がるので宗教法人は名乗らない。すでに儲けていて表に出たくないヒーラーは大手出版社から本を出したり、メディアに出たりという目立った動きをしない。目立ってしまうとその行動の矛盾を突かれてしまうからだ。ぜいぜい自費出版で本を出すくらいで、抜け目ない。
妻がスピリチュアルにはまっていると思っていたら、そこが宗教的な団体になっていたなんてことが今後続発することだろう。家に帰って、妻がハマっているスピが宗教集団化していないか、ヒーラーが教祖化していないかを確認してみることをおすすめする。
だが、妻は「そんなんじゃないのよ。ただのスピ好きだから」というに違いない。ホストにはまるより無害でいいと思っていたら大間違い。ふと気づいたら妻がヒーラーに大金をつぎ込んでいる事実に直面することもめずらしくない。
もちろんすべてのスピリチュアルが宗教団体化しているわけではない。だが数年後には振り返れば「スピリチュアルブームは新興宗教のはじまりだった」といわれる可能性が高いことは間違いないだろう。
<文・小出平走歌>