言葉ならざるもので政治を動かす人物が総理大臣を務める「怖さ」<菅野完氏>

メルケル首相の「言葉」

 その日のドイツ連邦議会は殺気立っていたという。  極右政党・AfD(ドイツのための選択)のアリウス・ヴィデル代表が、メルケル首相を罵詈雑言とも言うべき言葉を使って論い始めたのだ。  「15年間、メルケル内閣が行ってきたことと言えば、不法移民から国民を守ろうともせず、その代わりに国民に外出を禁止し、警察を動員して電車でマスク着用を強制していることくらいだ。コロナ発生から9カ月が過ぎても、いまだに状況は五里霧中、効果のない規制にしがみついて、被害は増加の一方だ」  後日、「メルケル首相にしては珍しく感情的なスピーチ」と日本では報道されることとなるメルケル首相の演説は、この罵詈雑言に応えるために行われたものだった。確かに「感情的」ではあろう。動画で確認する限り、彼女は目に涙をうっすらと浮かべている。姿勢も前のめりだし、声も張り上げていると言っていい。しかしその言葉は極めて理知的かつ合理的だ。  「クリスマスまであと14日です。14日! その間に再び感染が拡大してはなりません。レオポルディーナ(ドイツ国立科学アカデミー)は、この間は不要な接触を絶対に避けるべきだと言っています。これがとても辛い要求であることは承知しています。(クリスマスマーケットの)ホットワインやワッフルの屋台がどれほど恋しいことでしょう。外食できずに持ち帰りだけが許されるなんて納得できないこともわかっています。申し訳ない、本当に心の底から申し訳ないと思っています。でも、毎日毎日、590人の死者という代償を払い続けることは、私には受け入れられないのです」  「人と距離を取れ、人と会うな、マスクをしろなど、確かに非人間的な要求かもしれませんが、私たちの命を奪うほどのことではないでしょう。出来る限り多くの命が救われるよう、なおかつ滞りなく経済が回るよう、容易ではないこれからの日々を力を合わせて頑張っていきましょう」  熱くそして理知的にコロナウイルス対策の正念場を国家としてどう乗り越えるべきかを、30分以上もの時間をかけて語るメルケルの演説が終わるや否や、議場は拍手喝采に包まれたという。(ドイツ連邦議会における与野党双方の演説内容の翻訳は、ベルリン在住のギュンターりつこ氏のFacebook投稿よりご本人許諾のもと引用した)

「ガースー」発言よりも戦慄した菅総理の一言

 その3日後。  菅義偉首相は、「ニコニコ生放送」に登場した。インタビュー番組の体裁をとるこのネット番組の司会者は、菅首相とは旧知のジャーナリスト。冒頭から、司会者も総理もニヤつきながら「お久しぶりです」だのなんだのと言い交わしている。その後、菅首相はこう言い放った。  「こんにちは、ガースーです  この一言でスタジオは爆笑に包まれ、笑いを「獲った」菅首相本人も「してやったり」と言わんばかりのうすら笑いを浮かべていた。  何も、自分自身のことを自分のニックネーム、しかも人口に膾炙したとは到底言えぬニックネームで呼ぶことの軽薄さや大衆迎合路線を指摘したいのではない。そんなことのために、わざわざドイツのメルケル首相を持ち出す必要はない。  先ほど触れたように、司会を務めるジャーナリストと菅首相は旧知の間柄。その間柄を利用して司会者が菅首相の緊張を解こうとしていた節は見て取れる。番組を成立させ少しでも有意義な話を引き出そうとするために慣れた雰囲気を出すのもジャーナリストの技量のうちだ。事実、この司会者氏は実にうまい。菅首相の緊張をほぐし敵意がどこにもないことを示し切った上で、極めて自然な流れで  「まず最初に、番組をご覧の皆さんにメッセージを」  と水を向けた。この投げかけへの返答として出てきたのが「ガースーです」発言。確かにこの発言でスタジオは爆笑に包まれた。が、メッセージはどこにもない。たまらず司会者は「えっ? それだけ? それだけですか?」とたたみかける。それでも菅首相は「どれぐらい言っていいかわからない」と固辞し続けた。 この「ガースー発言」はネット番組配信の翌日から、一般紙を含め数々のメディアが取り上げた。だが、本来注目すべきは、「こんにちは、ガースーです」という発言ではなく、その後に菅首相の口から発せられた「どれぐらい言っていいかわからない」の一言なのではないか。
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国民に語る言葉を持たない首相
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